(遊行柳 元禄2年4月20日)
又、清水ながるゝの柳*は、蘆野の里*にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某*の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを*、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。
(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
代は替わっているが蘆野の遊行柳の周りは今でも一面の田圃
「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句碑(蘆野にて) 写真提供:牛久市森田武さん
「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑(蘆野にて)
郡守戸部某:<ぐんしゅこほうなにがし>と読む。芦野3,000石の領主で旗本の芦野民部資俊(あしののみんぶすけとし)、俳号桃酔<とうすい>のこと。江戸蕉門の一人。「戸部」は中国の古い官名で、ここでは「民部」に宛てて付けたのだろうが、下記のような理由で、故意に名を隠したのである。
ところで、資俊について一言。この人は、元禄5年6月26日に死去したが、芭蕉が芦野を訪れたときには生きていた。ところが『奥の細道』の初稿では、「此所の郡守故戸部某」と書いた。ということは、芭蕉が『奥の細道』を執筆したのは早くとも元禄5年7月であり、それより後であったということが分かっている。
「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを:この柳を私に見せたいと 桃酔はしばしば言っていたものだが、の意。手紙でか、会ってか?。
全文翻訳
また、西行法師の歌「道のべにしみづ流るゝ柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」と詠まれた柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っていた。ここの領主である戸守某が「この柳をぜひお見せしたい」と折にふれて語っていたので、ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日こうして柳の下に立ち寄ることができた。
田一枚植て立去る柳かな