(遊行柳 元禄2年4月20日)
又、清水ながるゝの柳*は、蘆野の里*にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某*の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを*、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。
(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
代は替わっているが蘆野の遊行柳の周りは今でも一面の田圃
「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句碑(蘆野にて) 写真提供:牛久市森田武さん
「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑(蘆野にて)
清水ながるゝの柳:西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」とあるによる。 栃木県那須郡那須町芦野にある柳がその舞台。ただし、『西行一代記』などによれば、この歌はここ芦野でこの柳のために詠んだのでもなんでもなく、鳥羽殿の障子に描かれた柳の絵に西行が画讃を入れたのがこれだという。しかるに、ここが 観世小次郎信光作の謡曲『遊行柳』の舞台 となったことで、観光地として一躍脚光を浴びるようになったというのである。「遊行 <ゆぎょう>」の原意は、僧侶がぶらぶら歩くこと、転じて布教のための行脚などをさしたが、ここでは浄土宗系時宗のこと。謡曲『遊行柳』では、この柳は朽ちていたが、一遍上人(遊行上人)(1239-1289)と思しき僧が訪れたとき柳の精 の化身らしき老人が現れて、朽木の柳にいざない、西行の出家と奥州下向の話をした。僧が「南無阿弥陀仏」を10辺唱えるとこの老人は消えた。その夜、柳の根方で眠る僧の夢枕に柳の精が現れて、ようやく成仏できたと礼を述べる。夜が明けるとそこにはもとのように朽木の柳が立っているばかりであった。この能の舞台は白河関より北にあるとされているので、地理的には一致しない。謡曲の作者観世小次郎信光の誤りであろう。 芭蕉はここではすべてを肯定したまま一句を詠んでいる。
郡守戸部某:<ぐんしゅこほうなにがし>と読む。芦野3,000石の領主で旗本の芦野民部資俊(あしののみんぶすけとし)、俳号桃酔<とうすい>のこと。江戸蕉門の一人。「戸部」は中国の古い官名で、ここでは「民部」に宛てて付けたのだろうが、下記のような理由で、故意に名を隠したのである。
ところで、資俊について一言。この人は、元禄5年6月26日に死去したが、芭蕉が芦野を訪れたときには生きていた。ところが『奥の細道』の初稿では、「此所の郡守故戸部某」と書いた。ということは、芭蕉が『奥の細道』を執筆したのは早くとも元禄5年7月であり、それより後であったということが分かっている。
「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを:この柳を私に見せたいと 桃酔はしばしば言っていたものだが、の意。手紙でか、会ってか?。
全文翻訳
また、西行法師の歌「道のべにしみづ流るゝ柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」と詠まれた柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っていた。ここの領主である戸守某が「この柳をぜひお見せしたい」と折にふれて語っていたので、ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日こうして柳の下に立ち寄ることができた。
田一枚植て立去る柳かな