(安積山・信夫もじ摺り 元禄2年4月29日・5月1日・2日)
等窮が宅を出て五里計*、檜皮の宿*を離れてあさか山*有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ*刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松*より右にきれて、黒塚の岩屋*一見し、福島に宿る。
あくれば、しのぶもぢ摺りの石*を尋て、忍ぶのさと*に行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり*。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*。
(さなえとる てもとやむかし しのぶずり)
早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺
とある。また、『曾良書留』には、
とある。これが初案であろう。
しのぶもぢ摺りの石 (写真提供:牛久市森田武さん)
「早乙女に仕形望まんしのぶ摺」福島市杉妻町福島県庁前(明治12年5月
斉藤利助(俳号忍山)建立)(写真提供:牛久市森田武さん)
あさか山:安積山、別名額取山。『古今集』の「序」に「あさか山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかは」(釆女)と詠われ、みちのくきっての歌枕になった。郡山の西方にあり、磐梯熱海温泉街からの登山口がある。
かつみ:ヒメシャガ(姫射牙)のような菖蒲に似た草花?らしいが、 詳しくは不明。郡山市では市の花としてヒメシャガを「カツミ」としている。端午の節句に菖蒲の代わりをつとめたという。『無名抄』に、ここで端午の節句を迎えた藤中将実方が、菖蒲が無かったのでその代 わり安積の沼の花「かつみ」を葺かせたという話がある。芭蕉はこれにこだわったが自身も「かつみ」を知らない。「みちのくのあさかの沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ」『古今集』がある。なお、曾良のメモには「かつみ」を探したという記事が無いので、ここは藤原実方の故事と結びつけるための芭蕉の創作らしい。
二本松:二本松市は福島県中通り地方の北部に位置し、福島市と郡山市の中間にある。戊辰の役では官軍に敗れ、二本松少年隊の悲話とともに藩政も終焉を迎えた。昭和33年1町5村が合併し現在の二本松市となった。人口35,223人(平成17年8月1日現在)。
しのぶもぢ摺の石:昔、安積国信夫郡でとれた忍草の茎や葉の色素で、ねじれたような模様の摺絹をつくったが、これはもじ摺りの石にこすりつけて作ったと解されていた。福島市山口の文 知摺観音境内にあった 。後世、源融と土地の娘虎女との悲恋の主題となった歌「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」(源融『古今集』)の歌枕としても有名になった。
さもあるべきことにや:本当にそんなことがあったのだろうか? 。土地の人々の石を突き落とすという行為について、そんあことがあってもおかしくはないと同調しつつも、そこまでしなくてもいいではないかという不満もこめて。
全文翻訳
等躬の家を辞して二十キロほど、日和田の宿駅を少し行ったところに安積山がある。街道筋からはすぐの場所。この付近は沼が多い。今が「かつみ」を刈る季節に近いと思われたので、どの草を「かつみ」と言うのかと土地の人々に尋ねてみたが、これを知る人は皆無。「かつみかつみ」と聞き歩いて、ついに日は山の端にかかってしまった。二本松より右に曲がって黒塚の岩屋を見て、福島に投宿した。
翌日は、「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」なる源融の歌で名高いもじ摺の石を訪ねて、忍ぶの里に行った。市街から遥かはなれた山かげの集落に半分土に埋もれたもじ摺石がある。村の子供たちがきて言うには、「昔、この石さ、山の上にあったんだけっども、もじ摺を試そうという人だちさぁやってきてぇ、麦を踏んづけっからあ、この谷底に落っこどしたら、石っこさひっくりけえって、面さ下になったんだでば」と言う。そんなことがあるのかとあきれかえって、
早苗とる手もとや昔しのぶ摺