(笠島 元禄2年5月4日)
(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)
藤中将実方の墓(写真提供:牛久市森田武さん)
「笠島はいづこ五月のぬかり道」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)
白石の城を過:<しろいしのしろをすぐ>と読む。白石は、伊達家の支城で、片倉氏の居城。
藤中将実方(〜998):<とうのちゅうじょうさねかた>と読む。藤原実方。一条天皇の時代、和歌の名手といわれて、左近衛の中将にまで昇進したが、長徳元年9月、天皇の前の歌会で藤原行成と口論に及びそれがもとで陸奥守に左遷される。当代きってのプレイボーイで、関係した女性は20人を超えたといわれている。行成との確執は清少納言を間に挟んだ恋の鞘当てが原因らしい。長徳4年12月12日、実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通過したところ、馬は突然倒れて死亡、その下敷きになって実方も死亡。そのままこの地に埋葬されたという(謡曲『実方』)。よくある貴種流離譚の一つ。
かた見の薄:<かたみのすすき>。後に西行がここを訪れ、実方の形見とて薄の穂波だけとなっている姿に涙して一首したためている。「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄かたみにぞ見る」
岩沼に宿る:岩沼は宮城県岩沼市。東北本線と常磐線の分岐点。実際には、芭蕉一行はここに宿泊していない。あえて文学的粉飾を施す必要も見えないので、これは芭蕉の記憶違いか? はたまた、佐藤庄司旧跡で一日溯って日付たので、ここで文学的調整を企図したのだろうか? ただし、芭蕉自筆本では「岩沼宿」として次の「武隈の松」の章見出しとして位置づけていたようでもある。そうだとすると、日付問題が再燃するので、素龍清書時に改稿した可能性も無いではない。
全文翻訳
鎌倉に馳せ参ずる義経一行が馬の鐙を擦ったと言い伝えられる「鐙摺」の細道、白石の城下を過ぎて、笠島に入ってきた。藤中将実方の塚は何処かと人に尋ねると、「こっから遥か右の方さ見える山際の里だら、箕輪・笠島と言ってぇ、道祖神も藤中将形見の薄なども残っているんだでば」と言う。このところの五月雨で道はぬかるみ、身体も疲れていたので、遠くから眺めるだけで通り過ぎることにしたのだが、箕輪の「蓑」といい、笠島の「笠」といい五月雨に縁があるので、
笠島はいづこさ月のぬかり道
と詠んだ。この日は、岩沼投宿。