(武隈 元禄2年5月4日)
武隈の松*にこそ、 め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師*思ひ出。往昔、むつのかみにて下りし人*、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし*」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継ぎなどせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し 。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白*
と云ものゝ餞別したりければ 、
(さくらより まつはふたきを みつきごし)
5月4日、白石を出発して岩沼を経由し名取川・若林川(広瀬川)をわたって仙台に入る。
散り失せぬ松や二木を三月越し
と詠んでいる。
「桜より松は二木を三月越」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)
武隈の松 (写真提供:牛久市森田武さん)
往昔、むつのかみにて下りし人:「往昔」は<そのかみ>と読む。陸奥守は藤原孝義。彼は、この松を伐採して橋を作ったと言い伝えられている。
能因法師:Whoswho参照
挙白:蕉門の一人。奥羽出身。詳細不明。芭蕉のこの旅の餞別吟として「武隈の松みせ申せ遅桜」の句を贈った。その意味は、芭蕉翁がそちらに着く頃には、もう桜も散ってしまうだろうが、せめて武隈の松だけはお見せしたいものだ。
全文翻訳
武隈の松は、実に新鮮な印象を与えるものだ。その根は、土際から二本に分かれていて、「たけくまの松はふた木を都人いかにとゝはゞみきと答ん」と古歌に詠まれているが、この時代そのままの姿をとどめているようにさえ見える。
真っ先に能因法師のことが思い出された。その昔、陸奥守として赴任した藤原孝義は名取川を渡るために、この松を伐って橋杭にしてしまったというのだが、そんことをふまえて能因は、「武隈の松はこのたび跡もなし千とせをへてや我は来つらん」と詠んでいる。代々、この松を、ある者は伐り、またある者は植え継ぎなどしてきたと聞くにつけても、今また千年の昔の姿に復活して、実にめでたい松の姿ではないか。「武隈の松見せ申せ遅桜」と、門人挙白が餞別をくれたので、
桜より松は二木を三月越シ