(仙台 元禄2年5月4日〜8日)
名取川*を渡て仙台に入。あやめふく日*也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰に画工加右衛門*と云ものあり。聊心ある者*と聞て、知る人になる。この者、年比さだか ならぬ名どころを考置侍ればとて*、一日案内す。宮城野*の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野*、つゝじが岡*はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下*と云とぞ。昔もかく 露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂*・天神の御社*など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す*。さればこそ、風流のしれもの*、爰に至りて其実を顕す*。
(あやめぐさ あしにむすばん わらじのお)
仙台市大町芭蕉の辻の記念碑 今では仙台の観光名所に
芭蕉の辻は奥州街道の宿駅でもあった
5月6日。天気晴朗。青葉城の追手門側から入って亀岡八幡神社参詣。その頃からにわか雨。茶室で雨宿り。
木ノ下薬師堂の句碑(牛久市森田武さん撮影)
画工加右衛門:北野屋という俳諧書林を営んでいた。 加右衛門は大淀三千風<おおよどみちかぜ>門下の俳人で、その俳号加之<かし>。三千風は、伊勢の人。松島見物の後仙台に定住し、仙台俳壇の指導的立場の大物となったが、この頃にはすでに仙台を離れて旅に出ていた。その留守を託したのが加右衛門だったらしい。しかし、彼には仙台俳壇を束ねる程の貫禄も力量もなく、三千風門下の長老達が離反して仙台俳壇はこの時期事実上崩壊していたらしい。それゆえ、芭蕉は仙台では加右衛門の案内でもっぱら視察に明け暮れていて、金沢などのように俳諧を頻繁に催して「蕉門拡大」を遂げるには至らなかったのである。
年比定からぬ名所を考置侍ばとて:<としごろさだからぬなどころをかんがえおきはべればとて>と読む。ここ数年来、古歌や歌枕で知られてはいるものの、場所の特定されない名所を時代考証しておいた、の意。
玉田・よこ野:歌枕。仙台市東郊。「取りつなげ玉田横野の放れ駒つつじが岡にあせみ咲くなり」(源 俊成)。あせみ=あせび(馬酔木)は5月のこの時期には仙台では咲かない。
榴ヶ岡天満宮の社(牛久市森田武さん提供)
木の下:歌枕。伊達正宗補修の薬師堂が有名。「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」(類字名所和歌集より)。なお、「みさぶらひみかさ」とは、「御侍御笠」のことで、「ご家来衆よ、ご主人さまに『御笠』を勧めよ」、の意。そうしないと木の下の露は雨より濡れるのだから、と言うのである。
薬師堂(牛久市森田武さん撮影)
且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す:<かつ、こんのそめおつけたるわらじにそくはなむけす>と読む。紺色の彩色を施した麻の緒。紺色はマムシを追い払うのに効果があると信じられていた。
爰に至りて其実を顕す:<ここにいたりてそのじつをあらわす>と読む。あやめの紺につながる「紺の染尾」の草鞋を餞に贈るという風流こそこの人の真骨頂だ、の意。
全文翻訳
名取川を渡って仙台に入った。五月四日。今日はちょうど、あやめを葺く日だ。旅宿を見つけて四、五日逗留することにする。ここ仙台には、加右衛門という画工がいた。風雅の道を解する人なので親しくなった。彼は、年来、場所の確定が困難になってしまった歌枕を調査してきたというので、ある日それらを案内してくれた。
今は夏だが、萩の名所宮城野には萩が群生していて、秋の風情が偲ばれる。俊成の歌、「取つなげ玉田よこのゝはなれ駒つゝじが岡にあせみ花さく」の古歌に沿って玉田・横野から榴ヶ岡に行ったが、まさに馬酔木の花咲く季節であった。昼でも陽の入らないほど繁茂した松林に入ったが、ここを木の下というとか。昔から露深く、古歌にも「みさぶらひみかさと申せみゆきのゝ木の下露は雨にまされり」と詠まれてきたところだ。薬師堂、榴ヶ岡天満宮などを参詣して、一日は終わった。
画工加右衛門は松島や塩竈の名所旧跡を絵に描いてプレゼントしてくれた。しかも、紺の鼻緒をつけた草鞋を二足、旅の餞にといって贈ってくれた。さすがに、風流の達人、こうしてその本領を発揮したのである。
あやめ草足に結ん草鞋の緒