(多賀城 元禄2年5月8日)
かの画図*にまかせてたどり行ば、おくの細道*の山際に十符の菅*有。今も年々十符の菅菰を調て*国守に献ずと云り。
壷碑* 市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟*。苔を穿て文字幽也*。四維国界之数里をしるす*。「此城、神亀元年*、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也*。天平宝字六年、参議東海東山節度使*、同将軍恵美朝臣朝かり修造而*。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す*。行脚の一徳、存命の悦び、
羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也*。
壺の碑を見る芭蕉(「芭蕉翁絵詞伝」より)
多賀城跡に立つ「壷の碑」 最近は、多くの芭蕉さんゆかりの地で、地元ボランティアの方がおり、案内をしてくれます。「壷の碑」でも、撮影をしていると、いつの間にか2人のボランティアの方が近寄ってきて、あれこれと説明してくれました。このような人は、中学か高校の先生をリタィアしたような人が多く、芭蕉さんの新たな情報を入手することが出来たりもします。(文と真提供:牛久市森田武さん)
おくの細道:現在の東北本線岩切駅付近 七北田川(冠川)沿い、東光寺裏山へ続く小道を大淀三千風らが「奥の細道」と名づけたとされる。そして、これが「奥の細道」の命名になったという説があるが怪しい。
十符の菅:<とふのすげ>と読む。編み目が10筋ある菰を編むための菅(スゲ)。 スゲは、カサスゲ・アゼスゲ・カンスゲ・シオクグ・ノスゲなど日本には200種以上ある。この国はスゲ大国である。「見し人もとふの浦かぜ音せぬにつれなく消る秋の夜の月」(橘為仲『新古今和歌集』)。
壷碑:<つぼのいしぶみ>。伊達綱村時代に多賀城跡から発掘された多賀城改築の記念碑であるが、この時代、壷の碑として誤伝されていた。
按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也:<あぜちちんじゅふしょうぐんおおのあそんあ づまひとのおくところなり>と読む: 「符」は「府」の、「所里」は「所置」の間違い。按察使鎮守府将軍は北方の守りの責任者。天平宝字6年(西暦762年)に多賀城は設立された。
同将軍恵美朝臣あさかり修造而 :<どうしょうぐんえみあそんあさかりのしゅうぞうなり>とよむ。「あさかり」は獣偏に萬だが「朝」+獣偏に葛(朝獦)が正しい。「而」は「也」の誤記。
爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す:<ここにいたりてうたがいなきせんざいのかたみ、いまがんぜんにこじんのこころをけみす>と読む。こうして碑が発掘されて永久の記念となり、これを目の前に見ていると昔の人々の心が理解される。
行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也:<あんぎゃのいっとく、ぞんめいのよろこび、きりょのろうをわすれて、なみだもおちるばかりなり>と読む。この旅の果報、命のあることの喜び、苦労の多い旅のことなども忘れて感動のあまり涙が出るばかりだ、の意。
全文翻訳
加右衛門が描いた名所絵図に従って旅していくと、おくの細道の山際に、「見し人もとふの浦かぜ音せぬにつれなく消る秋の夜の月」の古歌で有名な「十符の菅」があった。いまでも、年々十符の菅菰を作って、伊達家に献上しているという。
壺碑 市川村多賀城に有。
壺の碑は、高さ百八十センチあまり、横九十センチほど。まるで苔に文字を刻んだというほどに苔むしていて、はっきりとは読めないのだが、ここから四方にある国境までの距離が書いてある。「此城、神亀元年、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人之所里(置)也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍藤原恵美朝臣●修造而。十二月朔日」とある。神亀元年とは聖武天皇の即位の年にあたる。
ここには昔から数多くの歌枕が語りつがれてきたが、山は崩れ、川は流され、道は改まり、石は埋もれて、時は移り、世は変じ、その跡の不明なものばかりだ。それなのに、こうして紛れもない千年の歴史遺産を前にして、古人の心を感得した思いがする。旅すればこその果報、生きてある喜び、旅の苦しみも忘れて涙を流すばかりであった。