(末の松山 元禄2年5月8日)
それより野田の玉川・沖の石*を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山*といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も*、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦*に入相のかね*を聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に*、
籬が島*もほど近し。蜑の小舟*こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」*とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。
其夜目盲法師*の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる*。平家にもあらず、舞にもあらず*、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから*、殊勝に覚らる。
末の松山跡の「連理の枝=相生の松」 (写真提供:牛久市森田武さん)
歌枕「沖の石」(写真提供:牛久市森田武さん)
末松山:<まっしょうざん>と読む。多賀城市末松山宝国寺の裏に小山を作った。ここには、連理の枝を模した相生の松があった。これは、また男女の恋・愛欲などを象徴する。なお、この地には、本の松山・中の松山・末の松山と三つの松山があったという。
辺土の遺風忘れざるものから:<へんどのいふうわすれざる・・>。片田舎の伝統文化を継承していること。
全文翻訳
それより、能因法師の歌「夕されば汐風こえてみちのくの野田の玉川鵆なく也」で有名な野田の玉川、二条院讃岐の「我恋はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし」と詠まれた沖の石を訪ねた。
古今集の歌「君をゝきてあだし心をわがもたば末のまつ山波もこえなむ」や、藤原元輔の歌「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつゝすゑの松山波こさじとは」などで有名な末の松山だが、今では寺をつくってこれを末松山という。松林の中はいたるところ墓場で、この歌のように比翼連理の契りを結んだとはいえ、終のすみかはここなのかと、悲しい想いをしながら、「みちのくのいづくはあれど塩がまの浦こぐ舟の網手かなしも」と詠まれた塩がまの浦の入相の鐘を聞いた。
五月雨の空もうっすらと晴れて、夕月夜のうすくらがりの中に、「我せこをみやこにやりて塩がまの笆の島にまつぞわびしき」と歌に詠まれた籬が島もほど近い。蜑たちが小舟を連ねて港に戻ってきて、魚を分ける声に「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の網手かなしも」と読んだ源実朝の心も偲ばれてもののあわれを感じることひとしお。
その夜、盲目の琵琶法師たちの演ずる奥浄瑠璃というものを聴いた。平家琵琶でもなく、幸若舞でもない。ひなびた調子を寝ている枕近くで語るのでうるさくもあるのだが、こんな辺境に、忘れずに古来の伝統を残していることは殊勝なことだと感じ入った。