芭蕉db

奥の細道

(末の松山 元禄2年5月8日)


 それより野田の玉川・沖の石*を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山*といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も*、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦*に入相のかね*を聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に*、 籬が島*もほど近し。蜑の小舟*こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」*とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。
 其夜目盲法師*の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる*。平家にもあらず、舞にもあらず*、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから*、殊勝に覚らる。


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表紙 年表


kaisetsu.gif (1185 バイト)

 5月8日午前11時ごろ塩釜に着いた。「塩釜」を見る。ここで昼食に湯漬けなどを食べてから、末の松山、興井、野田玉川、おもわくの橋、浮島などを見物して、仙台の加衛門紹介の宿に一泊。


末の松山跡の「連理の枝=相生の松」 (写真提供:牛久市森田武さん)


歌枕「沖の石」(写真提供:牛久市森田武さん)