(塩竈・元禄2年5月9日)
早朝、塩がまの明神に詣*。国守*再興せられて、宮柱ふとしく*、彩椽*きらびやかに、石の階九仞に重り*、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土*の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎*奇進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そヾろに珍し。渠は勇義忠孝の士也*。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。誠「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」*と云り。
日既午にちかし*。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯*につく。
東北地方最大の規模を誇る鹽竈神社 (写真提供:牛久市森田武さん)
鹽竈神社の宝塔伊藤直樹氏撮影
「宝塔」の解説文伊藤直樹氏撮影
石の階九仞に重り:<いしのきざはしきゅうじんにかさなり>と読む.石の階段が高いところまで何段も続いている、の意 。当時塩竈神社の階段は『菅菰抄』の作者によれば、202段あったという。
和泉三郎:藤原秀衡三男忠衡 。泰衡の弟。義経を匿ったために次男泰衡から攻撃されて死亡。その2年前の文治3年(1187年)7月10日にここに宝塔を寄進したとされている。芭蕉がこの地を訪れたのはちょうど5百年後にあたる。 芭蕉の義経への肩入れは、すでに佐藤庄司旧跡でも語られている。そういえば、忠衡の妻は佐藤元治の娘であった。
誠「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是に従ふ」:<まことに「ひとよくみちをつとめ、ぎをまもるべし。なもまたこれにしたがう」>と読む。韓退之(かんたいし)『進学解』に<動いて謗りを得、名も亦これに従う>とあるによる。
全文翻訳
早朝、塩竈神社に参詣した。これは伊達政宗公が再興したもので、宮柱は太く、彩色の垂木は荘厳で、石段は高く、旭が朱の玉垣を照らしている。このような片田舎まで神仏の霊験があらたかであることこそ、この国の文化の高貴さである。神前に古い灯籠が立っていた。鉄の扉の表面には、「文治三年和泉三郎寄進」と書いてある。これを寄進した人の五百年前の姿がしのばれて、追慕の心やみがたい。和泉の三郎こと藤原忠衡は、勇義に篤く、忠孝の武士であった。その名は今に伝わって、人々は彼を敬慕する。文字通り「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」とはこういうことなのだ。
日はすでに昼近くになった。船を借りて松島に渡った。塩竈から松島まで、八キロあまり、雄島の磯に到着した。