(佐藤庄司旧跡 元禄2年5月2日)
月の輪のわたし*を越て、瀬の上*と云宿に出づ。佐藤庄司*が旧跡は、左の山際一里半計に有*。飯塚の里鯖野*と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる*。是庄司が旧館也*。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺*に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也*。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑*も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとヾめて汁物とす*。
(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
佐藤兄弟の墓 (写真提供:牛久市森田武さん)
弁慶が笈をも飾れ紙幟
「笈も太刀も・・」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)
義経の笈(写真提供:牛久市森田武さん)
佐藤庄司:「 庄司」は、荘園領主の代理人として荘園を管理する職のことで人名ではない。ここでは、信夫郡・伊達郡の庄司だった佐藤元治という個人を指している。佐藤元治は藤原秀衡の家臣で、佐藤継信(次信)・忠信の父。
二人の嫁がしるし、先哀也:<ふたりのよめがしるし、まずあわれなり>と読む。継信・忠信の妻の墓碑。二人は夫たちが義経と共に死んだとき、あたかも凱旋したように見せかけて鎧甲冑に身を包んで兄弟の老母を慰めたと伝えられていた。
堕涙の石碑:<だるいのせきひ>と読む。見て涙を流す石碑。中国の古事からきた。つづく「遠きにあらず」は、なにも中国でなくてもこんな所にも「堕涙の石碑」があったのかの意。
汁物とす:<じゅうもつ>と読む。置物の意。このうち義経の太刀は、太平洋戦争中金物の供出に出してそれっきりだという。これが日本文化を愛してやまないファシストのやることだから、彼らのいう愛国心など信用してはならないということ。
全文翻訳
月の輪の渡しを越えて瀬上という宿駅に出た。佐藤庄司の旧跡は、ここの左手十キロほど離れた山際、飯塚の鯖野にあると聞いたので道々尋ねながら行くと、丸山城というのに尋ね当たった。これが庄司の旧館である。麓に大手門の跡などが残っている。土地の人が語るこの城の悲話を聞いて涙を落とした。また、近くの古寺には佐藤一族の石碑が残っている。中でも、佐藤継信・忠信兄弟二人の妻の墓標は悲しい。彼女らは、二人の夫の戦死の後、甲冑に身を包んで亡き夫らの姿を装い、兄弟の母を慰めたなど、そのかいがいしい話が伝えられているにつけても涙を誘われる。まさに堕涙の「石碑は遠くにあらず」だ。
茶をいただこうと寺に入ってみれば、この寺の什宝は義経の太刀と弁慶の笈だ。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月一日のことだった。