芭蕉db

奥の細道

(須賀川 元禄2年4月22日〜29日)


 とかくして越行まゝに*、あぶくま川*を渡る。左に会津根*高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる*。かげ沼*と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川*の駅に等窮*といふものを尋て、四、五日とヾめらる*。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず*

 

風流の初やおくの田植うた

(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)

 

無下にこえんもさすがに*」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ*
 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有*。橡ひろふ太山もかくやと閧ノ覚られて*、ものに書付侍る。其詞、

      栗といふ文字は西の木と書て、西方
          浄土に便ありと*、行基菩薩*の一生
          杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。

 

世の人の見付ぬ花や軒の栗

(よのひとの みつけぬはなや のきのくり)


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表紙 年表 bo24_03.gif (162 バイト)俳諧書留


4月22日、矢吹から福島県須賀川市へ。相良等躬宅へ。ここで早速、「風流の初めや奥の田植歌」に始まる芭蕉・曾良・等躬の三吟歌仙
4月23日、「世をいとう僧」こと可伸を訪ねる。
4月24日、等躬宅の田植えがあった。午後からは可伸の庵で、「世の人の見付けぬ花や軒の栗」に始まる七吟歌仙。雷雨。
4月25日、等躬は物忌み。
4月26日、小雨。杉風宛に書簡執筆
4月27日、くもり。三つ物。芹沢の滝見物。
4月28日、朝は曇。今日、須賀川を発つ予定であったが、矢内彦三郎が来て延期となる。午後、彦三郎宅を訪問。
4月29日、須賀川を後にする。快晴。石河の滝を見物。途中、本実坊・善法寺などに立ち寄って、夕方郡山に到着して一泊。
 

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風流の初めや奥の田植歌

 等躬への挨拶吟。みちのくに入って耳にする田植歌は、俳諧風流の神髄だ。世辞を込めて須賀川をほめた句。
 


「風流のはじめや・・」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

世の人の見付ぬ花や軒の栗

 どうみても栗の花というのは美しいものとは言い難い。しかし「西の木」と書くぐらいで西方浄土に縁が深いという。「世の人の見つけぬ」というのにはそういうアンビバレントな感想が込められているのかもしれない。蕉門の僧侶可伸はこの木の下で世を捨てた生活をしていた。弟子への挨拶の吟。
 なお、この句は『俳諧伊達衣』および『真蹟歌仙巻』では、次のようになっている。
   桑門可伸は栗の木のもとに庵
   を結べり。伝へ聞く、行基菩
   薩の古は西に縁ある木なりと、
   枝にも柱にも用ひ給ひけると
   かや。幽棲心あるありさまに
   て、弥陀の誓ひもいと頼もし

隠れ家や目だたぬ花を軒の栗  芭蕉

まれに蛍のとまる露艸   栗斎

これに対して『伊達衣』(等躬編)に可伸は次のように述べている。

   予が軒の栗は,更に行基のよすがにもあらず,唯実をとりて
   喰のみ成しを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から、
   一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ

梅が香を今朝は借すらん軒の栗   須賀川栗斎可伸

可伸の栗の木は芭蕉の一句ですっかり有名になってしまったのがここから分かる。


与謝蕪村筆「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
隠者可伸と栗の木


可伸の庵跡 (写真提供:牛久市森田武さん)


可伸庵跡にある世の人の見付けぬ花や軒の栗」

 須賀川へは相楽さんを尋ねるのを楽しみにして行きました。さすが、等躬さんの末裔だけあって、話す言葉も上品で、素敵な奥様でした。
 奥様によると、苗字は「相良」では無く、「相楽」であること。芭蕉さんは相楽家に7日間滞在したが、家も土蔵もその後に建てられたもので、当時のものは、年に2度咲く樹齢400年のモクセイの木(下の写真)だけだそうです。また、「風流の初やおくの田植うた」について、私は、客人をもてなすために、座敷歌としての「田植うた」を披露したのか、長年気になっておりました。相楽さんは、作家の森敦さんの説ですがと断って、道中で実際に見て聞いたことを句に読んだのだろうと言っていました。(文と写真提供:牛久市の森田武さん)