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御命講やあたまの青き新比丘尼
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御命講やあたまの青き新比丘尼 許六
去來曰、七字かくいひ下さんハいかゞ。此レを直さば一句しほり出來らん*。許六曰、しほりハ自然の事也。求めて作すべからず。此
ハ七字を以てほ句也*。其角もさこそ評し侍りける也。
- 去來曰、七字かくいひ下さんハいかゞ。此レを直さば一句しほり出來らん:中七の「あたまの青き」はどうも頂けませんな。これを直したら一句の余情やさびが出てくるんですがね。「御命講」は日蓮の命日の10月13日。命日という神聖な悲しみに相応しくない剃ったばかりの青い頭の尼さんの情景。それこそ落語の「大山詣」ではないが「冬瓜舟」がついたような情景には「しおりはいできたらん」だろう。しかし、御命講の団扇太鼓を叩きながらの行進は、余情よりも祝祭性に勝っているので、江戸池上で万灯会見ていたであろう其角は、この句の方にこそ同感するであろう。なお、「しおり」は、蕉風俳諧の根本理念の一。対象に対する作者の繊細な感情が、自然に余情として句にあらわれたもの(『大辞林』)
- 許六曰、しほりハ自然の事也。求めて作すべからず。此
ハ七字を以てほ句也:許六は反論して「『しおり』というのは作者の中に自然に起こるべき余情であって、無理に引っ張り出してくるもではない。私の余情としてはここの通りだ」と言った。現に、其角も評価してくれているとも言った。