(曾良との別れ 元禄2年8月5日・6日)
(ゆきゆきて たおれふすとも はぎのはら)
(きょうよりや かきつけけさん かさのつゆ)
(よもすがら あきかぜきくや うらのやま)
(にわはきて いでばやてらに ちるやなぎ)
山中温泉の大木戸門跡にある「今日よりや書付消さん笠の露」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)
全昌寺境内にある「庭掃いて・・」の句碑(同上)
「全昌寺」について
「行き行きてたふれ伏とも萩の原」:『猿蓑巻の三』では、 「元禄二年翁に供(具)せられて、みちのく より三越路にかゝり行脚しけるに、 かゞの國にていたはり侍りて、いせ まで先達けるとて 『いづくにかたふれ臥とも萩の原』」となっている。なお、この句は、西行の歌「いづくにかねぶりねぶりて倒れ伏さむと思ふ悲しき道芝の露」(山家集)の本歌取になっている。
大聖 持:<だいしょうじ>と読む。加賀市大聖寺町。 加賀藩前田家の7万石の支城だが、徳川幕府ににらまれることを嫌って、金沢とは一体的に経営しなかったという。
全昌寺:<ぜんしょうじ>、石川県加賀市大聖寺町の曹洞宗寺院。先の山中温泉の和泉屋の菩提寺でもあり、ここの住職月印和尚は久米之助の 伯父だった。
隻鳧:<せきふ>と読む。蘇武と李陵とが匈奴に捕らえられていたのに、蘇武だけが漢に召喚されることになり、「雙鳧ともに北に飛び、一鳧ひとり南に翔ける」と李陵が別れを哀しんで詠んだ故事による。
終宵秋風聞やうらの山:<よもすがらあきかぜきくやうらのやま>。一人で泊まった寺の裏山の秋風はさみしく、心の中までしみとおってくるようだ 。
一夜の隔千里に同じ:<いちやのへだてせんりにおなじ>と読む。 蘇東坡の詩「咫尺<しせき>相見ざれば、実に千里に同じ」による。「咫」は周尺の八寸、「尺」は一尺で、転じて、極めて近い距離のこと。
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ:即興的に、草鞋を履いたまま一句を書いた、の意。
全文翻訳
曾良は、腹の具合が悪く、伊勢の国長島に親族がいるので、先に発つことにした。
行行てたふれ伏とも萩の原 曾良
と書き残して去って行った。行く者の悲しみ、残る者の無念、まさに李陵と蘇武の二人の別れにも似て、隻鳧が別れて雲に迷うとはこのことだ。私もまた一句、
今日よりや書付消さん笠の露
大聖寺の郊外に全昌寺という寺があり、ここに宿泊する。まだ、ここは加賀の国内である。曾良も前夜はここに泊まっており、
終宵秋風聞やうらの山
と一句残していた。まことに蘇東坡の詩「咫尺相見ざれば、実に千里に同じ」にあるように、一夜の隔たりは千里の距離だ。私も秋風を聞きながら、寺の宿寮に泊まる。
夜明けちかく澄んだ読経の声を聞く。やがて鐘板が鳴ったので食堂に入る。
今日は越前の国へ行くのだとあわただしく食堂を出ると、若い僧たちが紙や硯をもって、階段の下まで追ってきた。丁度そのとき庭の柳の葉の落ちるのが見えたので、
庭掃て出ばや寺に散柳
とっさの即興吟として、草鞋を履いたまま走り書きした。