(小松 元禄2年7月24日〜26日)
小松市建聖寺の芭蕉像(森田武さん提供)
(しおらしきなや こまつふく はぎすすき)
(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)
小松市建聖寺境内の「しほらしき名や・・」の句碑(牛久市森田武さん提供)
あなむざんや甲の下のきりぎりす
なお、『猿蓑巻の三』では、前詞は、「加賀の小松と云處、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」となっている。
下の写真撮影の時は、本文にある「むざんやな・・・」の句碑を撮影して来ましたが、由緒ある神社の句碑にしては、最近の作りで、何となく違和感を感じておりましたので、このたび再度「あなむざんや・・」の句碑も撮影に行きました。多太神社の宮司さんは、大阪大学を卒業した方で、引き止められ、神社の由来や甲に纏わるいろいろなご説明をしていただきました。最近の学生さんは歴史や文学に興味がないのか、芭蕉の句などもさっばり理解していないと少々ご不満のようでした。そういう私も、今回始めて「さた神社」と発音するのを知りました。(文と写真提供:牛久市森田武さん)
太田神社の参道にある「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)
太田神社
真盛:<さねもり>。斎藤別当実盛。はじめ、源義朝に仕えたが、平治の乱で義朝が失脚した後平宗盛につかえた。 寿永2年(1183年)、木曾義仲との倶利伽羅峠での戦いに平維盛に従って戦い、白髪を染めて奮戦したが討死にした。その後、実盛は亡霊となって出没した。ここの句の下五「キリギリス」は今言うキリギリスではなくツヅリセコオロギのこと。このコオロギこそ実盛の亡霊かもしれない。なお、 木曾義仲は、木曾の山中で幼少時にこの実盛に養育されたという因縁がある 。
義朝公より給はらせ給:<よしともこうよりたまわらせたまう>と読む。この実盛が死に花を咲かせるために着用した「錦の切」は、義朝からの下賜品ではなく実盛が宗盛に願い出て得た赤地錦の鎧直垂。芭蕉の間違い。
竜頭に鍬形打たり:<たつがしらにくわがたうったり>と読む。 竜頭は、竜の形をした兜の前立物で、眉庇につけた台に、金銅・銀銅・練り革などで作った二枚の板を挿して、角状に立てたものを鍬形という。
樋口の次郎が使せし事共:樋口次郎兼光は、 斉藤別當実盛の旧友であり、それゆえにこのとき実盛の首実検をした。そのとき、実盛の黒く塗られた白髪頭を見て、樋口次郎が「あな、むざんやな」 と涙を落としたという。謡曲『実盛』に、「樋口参りただ一目見て、涙をはらはら流いて、謡あなむざんやな、 斎藤別当にて候ひけるぞや」とある。
まのあたり縁起に見えたり:神社の縁起状に書いてあるのをまのあたりに見たの意 。ただし、「縁起」には無く、「木曾義仲副書(本文願状)」に書いてある。
あなむざんやな甲の下のきりぎりす 翁
ちからも枯れし霜の秋草 亨子
渡し守綱よる丘の月かげに 鼓蟾
しばし住べき屋しき見立てる 翁
酒肴片手に雪の傘さして 子
ひそかにひらく大年の梅 蟾
全文翻訳
小松というところで、
しほらしき名や小松吹萩すゝき
当地、多太八幡神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦のひたたれの切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時分、源義朝公から拝領したものだという。このうち兜は、どう見ても下級武士の使うものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様に金をちりばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲はこの神社へ願状を添えてこれらを奉納したという。その折、樋口次郎兼光が使者となったことなども神社の縁起には書いてある。
むざんやな甲の下のきりぎりす