芭蕉DB

野ざらし紀行

(京都再会)


伏見西岸寺任口上人*に逢 て

わがきぬにふしみの桃の雫せよ

(わがきぬにふしみのもものしずくせよ)

大津に出る道、山路をこ(へ)て*

山路来て何やらゆかしすみれ草

(やまじきてなにやらゆかしすみれぐさ)

湖水の眺望

辛崎の松は花より朧にて

(からさきのまつははなよりおぼろにて)

水口にて、二十年を經て故人*に逢ふ

命二つの中に生きたる櫻哉

(いのちふたつのなかにいきたるさくらかな)


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表紙 年表


わがきぬにふしみの桃の雫せよ

 当時、京都伏見は桃の産地だった。芭蕉が伏見に任口上人(にんこうしょうにん)を訪ねたのは桃の花咲く頃、西岸寺 (さいがんじ)の境内にも桃の花が咲いていたかもしれない。だから、桃の実は勿論ない。芭蕉と任口は任口の磊落な人柄もあって十分に親しかったようだが、ここでは久々の邂逅に、任口に対する宗教的尊崇の念を保ちながら詠んでいる挨拶吟。任口上人はこのちょうど一年後に死亡しているから、この時二人は病室で再会したのかもしれない。だとすれば、この句は激励を意図したことになる。


京都伏見西岸寺の句碑(牛久市森田武さん撮影)

山路来て何やらゆかしすみれ草

 『甲子吟行』中人々に最も愛された句の一つ。初案は「何とはなしに何やら床し菫草」であった。その後推敲を経てこの形になった。すみれの可憐な姿にゆかしさを見たというのだが、どういうゆかしさなのかは皆目知れぬ。蕪村にも「骨拾う人に親しき菫かな」という句がある。菫の花びらはよくよく見ると何やら人面のような模様がある。そこに昔の人の俤を見たか。
 落ち葉散り敷く山路に一株咲いている紫の可憐な花びらをしげしげと見て、思い出す人に似て「何やらゆかし」となったのであろうか。 なお、この句については湖春と去来の論争が「去来抄」にある。


滋賀県大津市小関町の天満宮境内の碑(同上)

崎の松は花より朧にて

 これも初案は、「辛崎の松は小町が身の朧」だった。西湖と西施が常に出てくるように、芭蕉にとって琵琶湖と小町は連想の対象であった。だから初案は近江八景唐崎の松と小町が詠い込まれたのであろう。千那邸での吟。 「にて」止めについての議論が其角や去来、呂丸によってあれこれとなされたのに対して、芭蕉は「深い意味は無い。ただ花より松の方が朧で面白かっただけだ」と言ったという。『去来抄』にある。


大津市唐崎一丁目唐崎神社境内の句碑(同上)下はその全景

命二つの中に 生たる櫻哉

 「中にいきたる」は、「生きる」か「活きる」か。後者なら桜の花が活けてあったという情景描写(嘱目)であり、前者なら作者の想いである。
 芭蕉が「命」という語を使うのはよくよく感動したとき。西行の「小夜の中山」に通じるからであろう。芭蕉が江戸に出奔したとき土芳は10歳の少年、いまや立派に成人した土芳との19年ぶりの再会は、「命なりけり」の感慨を大いに感ずるものであったに違いない。まして、息せき切って跡を追ってきた土芳の心根を知れば知るほどにその想いは昂ぶったことであろう。
 なにはともあれ、芭蕉翁傑作の一つである。


滋賀県甲賀郡水口町大岡寺にある句碑(同上)