徒然草(下)

第225段 多久資が申しけるは、


 多久資が申しけるは*、通憲入道*、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教へて舞はせけり。白き水干に、鞘巻を差させ*、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子の根元なり*。仏神の本縁を歌ふ*。その後、源光行*、多くの事を作れり。 後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教へさせ給ひけるとぞ*

多久資が申しけるは:<おおのひさすけ>、13世紀末の音楽家で、第一人者。

通憲入道:<みちのりのにゅうどう>(1106〜1159)平安後期の公卿。出家して法号を円空、のち信西<しんぜい>と称し、僧の身で後白河天皇の腹臣として活躍。政僧の典型。保元の乱で台頭したが、平治の乱で捕らえられて処刑された。著に「本朝世紀」「法曹類林」などがある(『大字林』参照)。

鞘巻を差させ:「鞘巻<そうまき>」は、つばの無い短刀。

白拍子の根元なり:平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを演じる遊女。今様などを歌い、水干・立烏帽子<たてえぼし>・佩刀<はいとう>の男装で舞ったので男舞といわれた。のちの曲舞<くせまい>などに影響を与えたほか、能にも取り入れられた。江戸時代には遊女であった(『大字林』参照)。

仏神の本縁を歌ふ:神や仏の縁起などを歌い込んだ芸能であった。

源光行(1163〜1244)鎌倉初期の学者。法名、寂因。和歌を藤原俊成に学ぶ。子の親行<ちかゆき>とともに源氏物語(河内本)を校訂。著「蒙求和歌」。

亀菊後鳥羽上皇が寵愛した 舞女で、一説には彼女とのことが承久の変の一因になったとも言われている。上皇の隠岐流罪にも同行したという。


 「白拍子事始」


 おおのひさすけがもうしけるは、みちのりにゅうどう、まいのてのなかにきょうあることどもをえらびて、いそのぜんじといいけるおんなにおしえてまわせけり。しろきすいかんに、そうまきをささせ、えぼしをひきいれたりければ、おとこまいとぞいいける。ぜんじがむすめ、しずかといいける、このげいをつげり。これ しらびょうしのこんげんなり。ぶつじんのほんえんをうたう。そののち、みなもとのみつゆき、おおくのことをつくれり。ごとばいんのごさくもあり、かめぎくにおしえさせたまいけるとぞ。