徒然草(下)

第184段 相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける


 相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける*。守を入れ申さるゝ事ありけるに*、煤けたる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつゝ張られければ、兄の城介義景*、その日のけいめいして候ひけるが*、「給はりて、某男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ*」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ*」とて、なほ、一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑らに候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども*、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり*」と申されける、いと有難かりけり。

 世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人にはあらざりけるとぞ。

相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける:「相模守時頼」は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼(1227〜1263)。名君の誉れ高いとされている。その母が松下禅尼で、安達景盛の娘で北条時氏の妻。 時氏が28歳の若さで早逝したために、彼女の人生は殆ど尼であった。

守を入れ申さるゝ事ありけるに:執権 時頼を母禅尼の庵室に招いたときのこと。

兄の城介義景:<せうとのじょうのすけよしかげ>と読む。尼の兄で、秋田城介安達義景。

その日のけいめいして候ひけるが:その日の接待役をおおせつかっていたのだが、。

給はりて、某男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ:障子の繕いは、私の方に任せてください。某という男がいるので彼に貼らせましょう。こういう仕事をよく心得た男ですから、と妹にそう言ったのである。

その男、尼が細工によも勝り侍らじ:なに、その男は、私よりも細かい仕事が下手だと思いますよ、と妹の禅尼が言った。

さはさはと張り替へんと思へども:「さわさわと」はきれいさっぱり、の意。

若き人に見習はせて、心づけんためなり:若き人=息子の執権への教育と心得たのである。


 「天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人にはあらざりけるとぞ」ということは、今日の殆どの政治家の母親は失格ということになるが・・・


 さがみのかみときよりのははは、まつしたのぜんにとぞもうしける。かみをいれもうさるることありけるに、すすけたるあかりしょうじのやぶればかりを、ぜんに、てづから、こがたなしてきりまわしつ つはられければ、せうとのじょうのすけよしかげ、そのひのけいめいしてそうらいけるが、「たまわりて、なにがしおのこにはらせそうらわん。さようのことにこころたるものにそうろう」ともうされければ、「そのおのこ、あまがさいくによもまさりはべらじ」とて、なお、ひとまずつはられけるを、よしかげ、「みなをはりかえそうらわんは、はるかにたやすくそうろうべし。まだらにそうろうもみぐるしくや」とかさねてもうされければ、「あまも、のちは、さわさわとはりかえんとおもえども、きょうばかりは、わざとかくてあるべきなり。ものはやぶれたるところばかりをしゅりしてもちいることぞと、わかきひとにみならわせて、こころづけんためなり」ともうされける、いとありがたかりけり。

 よをおさむるみち、けんやくをもととす。にょしょうなれども、せいじんのこころにかよえり。てんかをたもつほどのひとをこにてもたれける、まことに、ただひとにはあらざりけるとぞ。