徒然草(下)

第179段 入宋の沙門、道眼上人、一切経を持来して、


 入宋の沙門、道眼上人*、一切経を持来して*、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、殊に首楞厳経を講じて、那蘭陀寺と号す*

 その聖の申されしは、那蘭陀寺は、大門北向きなりと、江帥の説として言ひ伝えたれど*、西域伝・法顕伝などにも見えず*、更に所見なし。江帥は如何なる才学にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺は*、北向き勿論なり」と申しき。

入宋の沙門、道眼上人:<にっそうのしゃもん、どうげんしょうにん>と読む。 中国への留学経験を持つ僧で、道眼というひとは延慶2年に当時の元に留学している。永平寺の道元ではないので注意。

一切経を持来して:「一切経」とは、釈迦教説とかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称。大蔵経(『大字林』より)。これを元の国からもってきて。

 殊に首楞厳経を講じて、那蘭陀寺と号す :<ことにしゅりょうごんきょうをこうじて、ならんだじとこうす>「首楞厳経」(「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」の略称。10巻。般刺密帝<ばんらみたい>訳。禅法の要義を説いたもの(『大字林』より))を講じて、那蘭陀寺という道場を創建した。那蘭陀寺はインドの仏教経典の「メッカ」で、その名前にちなんで命名された。

 江帥の説として言ひ伝えたれど:<ごうそちのせつとていいつたえたれど>と読む。江帥とは大宰権帥大江匡房で彼の著書の中に「大門北向」の話が出てくるという。彼は、平安時代末期における一級の漢学者。

西域伝・法顕伝などにも見えず:西域伝にも法顕伝にもそんなこと(北向きのこと)は書いてない。西域伝は『大唐西域伝』で玄奘のインド旅行記、法顕伝は『佛国記』で法顕の同様の旅行記、両方とも仏教伝来にかかる西域の記録であり、後の東アジアの仏教世界に計り知れない影響を与えた。これら両書にも上記「北向き」の話は出てこない。

唐土の西明寺は:<もろこしのさいみょうじは>と読む。西明寺は、玄奘のために長安に唐の高宗が建立した祇園精舎を模した寺で、その大門は北向きであった。


 大江匡房の学説批判


 にっそうのしゃもん、どうげんしょうにん、いっさいきょうをじらいして、ろくはらのあたり、やけのというところにあんじして、ことにしゅりょうごんぎょうをこうじて、ならんだじとこうす。

 そのひじりのもうされしは、ならんだじは、だいもんきたむききなりと、ごうぞつのせつとていいつたえたれど、さいいきでん・ほっけんでんなどにもみえず、さらにしょけんなし。ごう ぞつはいかなるさいがくにてかもうされけん、おぼつかなし。とうどのさいみょうじは、きたむききもちろんなり」ともうしき。