徒然草(下)

第153段 為兼大納言入道、召し捕られて 、


 為兼大納言入道*、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ*、資朝卿*、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ*」とぞ言はれける。

為兼大納言入道:京極為兼(1254〜1332)。鎌倉後期の歌人。藤原定家の孫為教<ためのり>の子。二条家と歌道の主導権を争い、革新的な歌風を樹立。『玉葉集』を編集した。政治上、持明院統に属し、佐渡・土佐に流された。 この話は、後者の土佐流罪の時で、1315年爲兼62歳のおりの事件。歌論書「為兼卿和歌抄」がある(『大字林』より)。

六波羅へ率て行きければ:逮捕されて六波羅探題へ連行されていった。「六波羅」は、鎌倉幕府の職名。承久の乱後、六波羅の地に設置。南方・北方の2名からなり、京都の警護、朝廷の監視および尾張(のち三河)・加賀以西の政治・軍事を管掌した。執権に次ぐ重職で、北条氏の一族から選任した。六波羅守護。六波羅殿(『大字林』より)。

資朝日野資朝

「あな羨まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」:資朝は後に政治的闘争に巻き込まれるのだが、「あのように鎌倉政権に捕らえられていくのは男子一生の生きていた証として快挙である」と言ったというのである


 日野資朝の過激さを書きたかったのか?


 ためかねだいなごんにゅうどう、めしとられて、ぶしどもうちかこみて、ろくはらへいていきければ、すけとものきょう、いちじょうわたりにてこれをみて、「あなうらやまし。よにあらんおもいで、かくこそあらまほしけれ」とぞいわれける。