徒然草(下)

第144段 栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、


 栂尾の上人*、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな*。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候ふ*」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ*。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。

栂尾の上人<とがのおのしょうにん>と読む。明恵上人(1173〜1232)。鎌倉初期の 高僧。華厳宗中興の功労者。紀伊の人。諱<いみな>は高弁。栂尾<とがのお>山に高山寺を開き、華厳宗興隆の道場とした。また、宋から栄西が将来した茶の栽培でも知られる。著「摧邪輪<ざいじやりん>」「華厳唯心義」など(『大字林』参照)。

宿執開発の人かな:<しゅくしゅうかいはつのひとかな>と読む。「宿執開発」は仏教用語で、前世での善根・功徳が現世に実を結ぶこと(『大字林』参照)。

府生殿の御馬に候ふ:<ふしょうどののおんうまにそうろう>と読む。「府生殿」は検非違使庁の下っ端役人。 「府生」を「不生」と聞こえて、「阿字本不生」と結びつけたのである。

阿字本不生にこそあンなれ:<あじほんふしょう>とよむ。仏語。密教の根本思想の一。一切諸法の本源が不生不滅である、すなわち一切が空であることを、阿字が象徴しているという考え(『大字林』参照)。阿字は、それだけで信仰の対象にあった。


阿字の例


 なんと明恵という人は、素直な心の持ち主であろう!!??


 とがのおのしょうにん、みちをすぎたまいけるに、かわにてうまあらうおのこ、「あしあし」といいければ、しょうにんたちどまりて、「あな とうとや。しゅくしゅうかいはつのひとかな。あじあじととなうるぞや。いかなるひとのおんうまぞ。あまりにとうとくおぼゆるは」とたずねたまいければ、「 ふしょうどののおんうまにそうろう」とこたえけり。「こはめでたきことかな。あじほんふしょうにこそあンなれ。うれしきけちえんをもしつるかな」とて、かんるいをのごわれけるとぞ。