徒然草(上)

第106段 高野証空上人、京へ上りけるに 、


 高野証空上人*、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曳きける男*、あしく曳きて、聖の馬を堀へ落してンげり。

 聖、いと腹悪しくとがめて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな*、比丘よりは比丘尼に劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり」と言はれければ、口曳きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに*、上人、なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学の男」とあらゝかに言ひて*、極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり*

 尊かりけるいさかひなるべし。

 

高野証空上人:高野山の上人証空だが、伝未詳。

口曳きける男:女の馬をひいていた馬子。この女の馬が、上人の馬を突き落としたかして、上人の馬は堀へ落っこちてしまった。

四部の弟子はよな:<しぶのでしはよな>。「四部の弟子とはだなぁ」。四部の弟子とは、後述の比丘・比丘尼・優婆塞・ 優婆夷をいう。まず、比丘<びく>は出家得度して具足戒を受けた男子=僧、比丘尼<びくに>は出家具足戒を受けた女性=尼、優婆塞 <うばそく>・優婆夷<うばい>は、五戒を得度した在家の仏教者のそれぞれ男女のこと。序列は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の順だと証空上人はここで力説している。

口曳きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに:そんなことを言われてもあっし らには何にも分かりません、とこの男は答えた。

「何と言ふぞ、非修非学の男」とあらゝかに言ひて:ますます上人は頭にきて、「何を言いやがる! この修業もしない、無学 野郎め!!」と乱暴に言った。

極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり:この主語は、証空上人。なんとこの上も無い放言をしてしまったなぁと気がついたらしく、馬を引き返して逃げていってしまった。


 まったく、「尊かりけるいさかひなるべし」だ。証空上人は、数日間自己嫌悪から回復できなかったであろう。かく言う筆者も、恥ずかしながら、学生諸君を相手にこの種の経験をしている。数日間、自己嫌悪にかられたものだからよく分かる。


 こうやのしょうくうしょうにん、きょうへのぼりけるに、ほそみちにて、うまにのりたるおんなの、いきあいたりけるが、くちひきけるおとこ、あしくひきて、ひじりのうまをほりへおとしてンげり。

 ひじり、いとはらあしくとがめて、「こはけうのろうぜきかな。しぶのでしはよな、びくよりはびくににおとり、びくによりうばそくはおとり、うばそくよりうばいはおとれり。かくのごとくのうばいなどのみにて、びくをほりへけいれさする、みぞうのあくぎょうなり」といわれければ、くちひきのおとこ、「いかにおおせらるゝやらん、えこそききしらね」というに、しょうにん、なおいきまきて、「なにというぞ、ひしゅひがくのおとこ」とあらゝかにいいて、きわまりなきほうげんしつとおもいけるけしきにて、うまひきかえしてにげられにけり。

 とうとかりけるいさかいなるべし。