徒然草(上)

第103段 大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ


 大覚寺殿にて*、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守参りたりけるに*、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを*、「唐医師」と解きて笑ひ合はれければ*、腹立ちて退り出でにけり。

大覚寺殿にて:京都嵯峨にある真言宗大覚寺。後宇多法皇の御所であった。ここで、法皇院の秘書官たちがなぞなぞをやっていたところへ、 ・・・。

医師忠守参りたりけるに:丹波忠守という医師で 典薬頭、彼の先祖は帰化人だったという。

侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを:公明卿 <きんあきらのきょう>が「日本人とは見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにした。侍従大納言は後宇多法皇の特別秘書官で三條公明(1281〜1336)。

「唐医師」と解きて笑ひ合はれければ:謎々の答えに「中国の医者」と答えた もの。これを聞いた忠守は怒って帰ってしまった、という。こう言われたからといって怒るのもどうかと思うが、忠守の顔が日本人離れでもしていたのか? そのことで陰口を言い合っていたのかどうか? 緒本には「唐瓶子<からへいし>」と答えて、忠守を怒らせたというのもある。これは、平忠盛が斜視(=眇<すがめ>)であったために伊勢のすがめ=酢瓶=瓶子といって悪口を言われたことが歴史にあって、帰化した斜視の医者という意味で「唐瓶子」としたか??。


 院政時代の公務員の仕事というのもあまり無かったようだ。なぞなぞを勤務時間中にやっているというのだから、人事院規則の未整備ではないか?


 だいがくじどのにて、きんじゅうのひとども、なぞなぞをつくりてとかれけるところへ、くすしただもりまいりたりけるに、じじゅうだいなごんきんあきらのきょう、「 わがちょうのものともみえぬただもりかな」と、なぞなぞにせられにけるを、「からくすし」とときてわらいあわれければ、はらたちてまかりいでにけり。