尹大納言光忠卿*、追儺の上卿を勤められけるに*、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ*、「又五郎男を師とするより外の才覚候はじ*」とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士の、よく公事に慣れたる者にてぞありける。
近衛殿著陣し給ひける時、軾を忘れて、外記を召されければ*、火たきて候ひけるが、「先づ、軾を召さるべくや候ふらん」と忍びやかに呟きける*、いとをかしかりけり。
尹大納言光忠卿:<いんの だいなごん みつただ きょう>。源光忠(1284〜1331)大納言でかつ弾正尹(弾正台長官)を尹大納言と呼称した。 その役目は、京都市中の風俗や公安の巡察、現在の公安警察。
追儺の上卿を勤められけるに:<ついなのしょうけいをつとめられ・・>と読む。「追儺の上卿」は大晦日の行事である鬼やらいの式典奉行。これに任命された。第19段参照。
洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ:「洞院右大臣」は、洞院公賢<とういんきんたか>(1291〜1360)でこの頃右大臣。光忠は、右大臣に役目のやり方を教えてもらいに行った。
「又五郎男を師とするより外の才覚候はじ」:又五郎に尋ねるしか方法はないよ」という。又五郎は、不祥。身分の低い衛士(=皇宮警察のお巡りさん で、夜間照明などの管理や警備を担当)だが、よく宮中行事に詳しい男だったらしい。
近衛殿著陣し給ひける時、軾を忘れて、外記を召されければ:ここからは回想。その昔、近衛殿(近衛経忠か?)が式典で着座しようとしたときに、ひざつきを忘れてしまったので、外記(式典担当の秘書官)を呼びつけた。軾<ひざつき>は、室外で行う式典時に地面に敷く布または畳状の敷物。江戸時代になると、転じて庶民の間で「謝礼」の意となる。
「先づ、軾を召さるべくや候ふらん」:照明用の火の管理をしていた件の又五郎は、小さな声で「近衛殿は、外記を呼んで儀式を始めてしまうのではなくて、まず雑用係を呼んで軾を着けるのが先ではないか」と言ったという。
どこかの県議会のように、半年毎に議長が交代したり、どこかの大学のように慣れる前に学部長を交代して、役職のたらい回しをしていると、役職に係る仕事を覚える前に辞めてしまう。よって、下っ端の方がよく事を知っているなど、今日でもちっとも珍しくはない。
いんのだいなごごんみつただのきょう、ついなのしょうけいをつとめられけるに、とういんうだいじんどのにしだいをもうしうけられければ、「またごろうおのこをしとするよりほかのさいかくそうらわじ」とぞのたま いける。かのまたごろうは、おいたるえじの、よくくじになれたるものにてぞありける。
このえどのちゃくじんしたまいけるとき、ひざつきをわすれて、げきをめされければ、ひたきてそうらいけるが、「まづ、ひざつきをめさるべくやそうろうらん」としのびやかにつぶやきける、いと おかしかりけり。