人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど*、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる*、心あわたゝし*。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ*。果ての日は*、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたゝめ*、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき*。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」*など言へるこそ、かばかりの中に何かはと*、人の心はなほうたて覚ゆれ*。
年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや*、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて*、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける*。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ*、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを*、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ*、古き墳は犂かれて田となりぬ*。その形だになくなりぬるぞ悲しき。
中陰のほど:<ちゅういん>は、中有<ちゅうう>とも。仏語。四有 <しう>(生まれて死んで転生して再度生まれるまでの四つのステージ。生有<しょうう>・本有・死有・中有)の一。輪廻のステージで、人が死んでから次の生を受ける(転生)までの期間。七日間を一期とし、通常、第七の四九日までを「中陰」とする。
後のわざども営み合へる:(便の悪い山の中の寺などに寄り集まって)死者の冥福を祈る行事などを執り行っている。この時代には、中陰の間中死者と向き合ったのであって、今日のように葬式の日に初七日を執り行って、49日目までは家族以外の者は死者のことなどほとんど忘れてしまっているのとは、大いに異なるのだが、それでも作者は後述のように不満なのである。
心あわたゝし:気ぜわしい。
ものにも似ぬ:他に例がないほど(時間の経ち方が早い)。
果ての日:49日目のこと。死者は審判が下り、輪廻の経路に組み込まれ、生前正しかった死者は西方浄土へ、そうでない死者は輪廻の循環の中に再度放り込まれるのである。
我賢げに物ひきしたゝめ:<われかしこげにものひきしめ>と読む。我先にと持ち物を整理して、の意。
もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき:死者の家族は、自分の家に帰ってきて、なお一層悲しみが増してくる。
「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」:このようなことは、要注意、後に残っている者として忌み事であるからそういうことはやってはならぬ」などと言われること。「あなかしこ」はたしなめる言葉で、「ゆめゆめ○○してはならぬ」として使われる。手紙の結文に使う意味は「恐懼」「恐れ多いこと」の意で使われている。
かばかりの中に何かはと:このような悲しい時に何故そんなことを言うかと。
人の心はなほうたて覚ゆれ:「うたて」はなげかわしい、とか、いやらしい、情けない、などの意。つづめて、悲しんでいるときに何やら心に染まないことを注意がましく言われるなどは、人心というものはいやらしいものだと思わされてしまう、ほどの意。
その際ばかりは覚えぬにや:あの 死の折ほどの悲しみは感じなくなる。
骸は気うとき山の中におさめて:< からはけうときやまのなかにおさめて>。遺骨は、人の行かない山中に埋葬して。
こととふよすがなりける:<言問う縁なりける>で、埋葬をしてしまうと、忌日など以外にはもはや墓参りも間遠になって、やがて卒塔婆もコケが生え、木の葉に隠れて、夕風と月の光以外には訪れる人もない、というのである。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ:それでもまだ記憶があって偲んでくれる人が生きている間はいいが。。
心あらん人はあはれと見るべきを:心ある人なら、あわれと思うであろうようなこと。
果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ:「嵐に咽びし松」とは風に吹かれてむせび泣くような声を上げていた松の意。そんな松もやがて千年と経たないうちに薪にと砕(摧)かれてしまう。
古き墳は犂かれて田となりぬ:<ふるきつかはすかれて・・>と読む。墓だった場所が開発されて田になってしまう。こうしてあとかたなく消えてしまうのである。
人は二度死ぬ。一度は、心臓が止まって。もう一度は、親族や友人から忘れられて。しかし、これに加えて、墓が田になるような、全否定が待っている。文字通り、諸行無常であるということ。
ひとのなきあとばかり、かなししきはなし。
ちゅういんのほど、やまざとなどにうつろいて、びんあしく、せばきところにあまたあいいて、のちのわざどもいとなみあえる、こころあわただし。ひかずのはやくすぐるほどぞ、ものにもにぬ。はてのひは、いとなさけのう、たがいにいうこともなく、われかしこげにものひきした ため、ちりぢりにいきあかれぬ。もとのすみかにかえりてぞ、さらにかなしきことはおおかるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、あとのためいむなることぞ」などいえるこそ、かばかりのなかになにかはと、ひとのこころはなおうたておぼゆれ。
としつきへても、つゆわするるにはあらねど、さるものはひびにうとしといえることなれば、さはいえど、そのきわばかりはおぼえぬにや、よしなしごといいて、うちもわらいぬ。からは けうときやまのなかにおさめて、さるべきひばかりもうでつつみれば、ほどなく、そとばもこけむし、このはふりうずみて、ゆうべのあらし、よるのつきのみぞ、こととうよすがなりける。
おもいいでてしのぶひとあらんほどこそあらめ、そもまたほどなくうせて、ききつたうるばかりのすえずえは、あはれとやはおもう。さるは、あととうわざもたえぬれば、いづれのひととなをだにしらず、としどしのはるのくさのみぞ、こころあらんひとはあはれとみるべきを、はては、あらしにむせびしまつもちとせをまたでたきぎにくだかれ、ふるきつかはすかれてたとなりぬ。そのかただになくなりぬるぞかなしき。