方丈記

(第二段)

bo24_02.gif (163 バイト)第一段 bo24_01.gif (163 バイト)第三段

目次

現代語訳


 

 、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に*、世の不思議を見る事、やゝ度々になりぬ。

 安元三年四月廿八日かとよ*、風はげしく吹きて、静かならざりし夜、戌の時許*、都の東南より火出できて、西北に至る。はてには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて*、一夜のうちに塵灰となりにき。

 もとは、樋口富の小路*とかや、舞人を宿せる仮屋よりいできたりけるとなん*。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに*、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛が如くして一二町を越えつゝ移りゆく。其中の人、うつし心あらむや*。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ*。或は身ひとつ、からうじてのがるゝも、資財を取出るに及ばず。七珍万宝さながら灰燼となりにき*。其費え、いくそばくぞ*。其たび、公卿の家十六焼けたり*。まして、其外数へ知るに及ばず。惣て都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬牛のたぐひ辺際を不知*

 の営み、皆おろかなるなかに、さしもあやふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る*

 、治承四年卯月のころ*、中御門京極のほどより大きなる辻風*おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。

 四町を吹きまくる間に、こもれる家ども*、大きなるも小さきも一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。門を吹きはなちて四五町がほかにおき、又垣を吹きはらひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資財、数をつくして空にあり。桧皮・葺板のたぐひ*、冬の木の葉の風に乱るるが如し。塵を煙の如く吹たてたれば、すべて目も見えず。おびたゝしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞えず。彼地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。
 家の損亡せるのみにあらず。是をとりつくろふ間に、身をそこなひ片輪づける人*、数も知らず。この風、未の方に移りゆきて、多くの人の歎きなせり*

 風はつねに吹く物なれど、かゝる事やある。たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか、などぞうたがひ侍りし*

 、治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍き*。いと思ひの外なりし事なりき。
 おほかた、此の京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、すでに四百余歳を経たり*。ことなるゆゑなくて*、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人やすからず憂へあへる、実にことわりにもすぎたり*

 れど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣・公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思をかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとくうつろはむとはげみ、時をうしなひ世にあまされて期する所なきものは、うれへながらとまりをり。軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬・鞍をのみ重くす*。牛・車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄薗を好まず*

 の時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京にいたれり*。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里をわるにたらず*。北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音常にかまびすしく、しほ風殊にはげし。内裏は山の中なれば、彼木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて優なるかたも侍り*。日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくにつくれるにかあるらむ*。なほむなしき地は多く、つくれる家は少し*古京はすでに荒て、新都はいまだならず。ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり*。もとよりこの所にをるものは*、地を失ひてうれふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠・布衣なるべきは、多く直垂を着たり*。都の手振里たちまちに改まりて、たゞひなたる武士に異ならず。世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく*、日を経つゝ世中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民のうれへ、つひにむなしからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給にき*。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとの様にしもつくらず。

 へ聞く*、いにしへの賢き御世には、あはれみを以て国を治め給ふ。すなはち殿に茅ふきて、その軒をだにとゝのへず、煙の乏しきを見たまふ時は、限りあるみつぎ物をさへゆるされき。是、民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし 。

 養和のころとか、久くなりておぼえず。二年があひだ、世中飢渇して、あさましき事侍りき*。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀事々くならず。むなしく、春かへし夏植うるいとなみありて、秋刈り冬収むるぞめき*はなし。

 によりて、国々の民、或は地を棄てゝ境を出で、或は家を忘れて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど*、更に其しるしなし。京のならひ、なにわざにつけてもみなもとは田舎をこそ頼めるに、たへて上るものなければ、さのみやはみさをもつくりあへん*。念じわびつゝ、さまざまの財物かたはしより捨つるが事くすれども、更に目見立つる*人なし。たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす*。乞食、路のほとりに多く、うれへ悲しむ声耳に満てり。

 の年、かくの如くからうじて暮れぬ。あくる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさゞまに、あとかたなし*。世人みなけいしぬれば*、日を経つゝきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり*。はてには、笠うち着、足ひきつゝみ、よろしき姿したる物、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く*。かくわびしれたるものどもの*、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる物のたぐひ、数も不知。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満て、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行きかふ道だになし。あやしき賎・山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、みづらが家をこぼちて、市に出でゝ売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに不及とぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを、尋ぬればすべきかたなきもの*、古寺に至りて仏をぬすみ、堂の物の具を破り取りて、割りくだけるなりけり。濁悪世にしも生れあひてかゝる心うきわざをなん見侍し。

 たいとあはれなる事も侍き。さりがたき妻・をとこもちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たるくひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば親子ある物は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又、母の命尽きたるを不知して、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつゝ臥せるなどもありけり。

 和寺に隆暁法印といふ人*、かくしつゝ数も不知死る事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける*。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる物多く、又、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや*

 徳院の御位の時、長承のころとか*、かゝるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりめづらかなりし事也。

 、同じころかとよ。おびたゝしく大地震ふること侍き*。そのさまよのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。なぎさ漕ぐ船は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす*。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず*。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍しか。

(兼良本による追加)

 くおびたゞしくふる事は、しばしにして止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日・廿日すぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけむ。

 大種のなかに*、水・火・風はつねに害をなせど、大地にいたりては、ことなる変をなさず。昔、斉衡のころとか*、大地震ふりて、東大寺の御首落ちなど、いみじき事どもはべりけれど、なほこの度には如かずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にしのちは、事ばにかけて言い出づる人だになし。

 べて、世中のありにくゝ、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさま、又、かくのごとし*。いはむや、所により、身のほどにしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて不可計*

 、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらにをるものは、深くよろこぶ事あれども、大きにたのしむにあたはず。なげき切なるときも、声をあげて泣くことなし。進退やすからず。たちゐにつけて、恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。若、貧しくて、富める家のとなりにをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて*、へつらひつゝ出で入る。妻子・僮僕のうらやめるさまを見るにも*、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも*、心、念々に動きて*、時としてやすからず。若、せばき地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるゝ事なし。若、辺地にあれば、往反わづらひ多く*、盗賊の難はなはだし。又、いきほいある物は貪欲ふかく、独身なる物は人にかろめらる。財あればおそれ多く、貧ければうらみ切也*。人を頼めば、身、他の有なり*。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる*。世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき*

頁先頭


四十余りの春秋を送れる間:父鴨長継(下鴨神社神官)を失った長明19歳の春(承安3年1173)頃を指すのであろう。長明の人生がこれによって暗転していった。

去、安元三年四月廿八日:<いんじ、あんげん・・>。「去<いんじ>」は、「いにし」の省略表現。1177年。この年、京都に大火。大内裏・大極殿・八省院をはじめ2万余の家屋を消失した。作者、この年23歳。

戌の時計:<いぬのときばかり>と読む。午後8〜9時ごろ。

はてには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて:朱雀門<すざくもん>は大内裏の正面の門。大極殿<だいこくでん>は大内裏朝堂院諸殿舎の北方に建つ正殿。重要な建物ではあったが、この火事以後ついに再建されることはなかった大学寮<だいがくりょう>は貴族の子弟のための教育機関。民部省<みんぶしょう>は徴税・戸籍・土木・福祉・交通などを担当す役所。

樋口富の小路東西に延びる樋口小路と南北に走る富小路の交差する所。現在の河原町5条辺りといわれている。平安京条坊図参照

舞人を宿せる仮屋よりいできたりけるとなん:<まいびとをやどせるかりやよりいできたりけるとなん>と読む。「舞人」はダンサーであるが、どういうものかは不明。ただし、諸本では「病人」とする。「仮屋」はバラックのことだが、その事情 も不明

とかく移りゆくほどに:このように、類焼していくにつれての意。それにしても、ここの一文の描写は凄まじい。おそらく、広島・長崎の原爆や東京大空襲はまさにこのとおりだったのであろう。まさに、「その中の人、現し心あらむや(火事の中の人々は生きた心地などあるわけがない)」である 。

うつし心あらむや:生きた心地はあっただろうか、の意。

焔にまぐれてたちまちに死ぬ:まぐれて」は「眩んで」 「目まいして」の意。倒れて焼死したのであろう。

七珍万宝さながら灰燼となりにき:「七珍」は七宝のこと。金・銀・瑠璃 <るり>・琥珀<こはく>・珊瑚<さんご>・蝦蛄<しゃこ>・瑪瑙<めのう>をいう。これらはみな灰燼に帰して 。

其たび、公卿の家十六焼けたり:九条兼実の『玉葉』では14軒となっている。政府情報である高級官僚兼実の 情報の方が信憑性が高いかもしれない。

馬牛のたぐひ辺際を不知:<ばぎゅうのたぐい、へんさいをしらず>と読む。焼け死んだ馬や牛の数は際限もない。 死者を男女「数十人」としているが、諸本では「数千人」、『平家物語』では数百人。この時代の日本の人口は700万人程度と推定されている。

其費え、いくそばくぞ:その火災による財産の消失はいくばくであろうか、 いや、莫大なものであったろう、の意。

すぐれてあぢきなくぞ侍る:(これほどまでに危険極まりない京の都に家を作るためにお金を使い、心配するということは、)きわめて無益なことだ、の意。
治承四年卯月:1180年4月29日。この年夏には源頼朝の本格反攻開始 。

中御門京極のほどより大きなる辻風<つじかぜ>つむじ風のこと。 「中御門京極」は中御門大路と京極大路の交点。

こもれる家ども:辻風に覆われている 範囲の家々の意。

桧皮・葺板のたぐひ:<ひわだ・ふきいた>。いずれも屋根材。前者は寺院や貴族の邸宅に、後者は広く一般に使われた素材。

身をそこなひ片輪づける人:怪我をして障害者になった人の意。「片輪」は「片端」の通用形。

未の方に移りゆきて、多くの人の歎きなせり:「未」は<ひつじ>の方角で南南西を指す。このつむじ風は未の方角に移動していって、そこでまた多くの人々に甚大な被害を及ぼしたのである。
さるべきもののさとしか、
などぞうたがひ侍りし神仏の諫言ではないかと、などと皆で疑った 、の意。
治承四年水無月1180年6月2日、平清盛、福原に遷都 。長明は、これを視察に神戸まで出かけている。この人のプラグマティズムというか、野次馬根性というか、ジャーナリズム趣味というか、とにかくその行動力はすばらしい。 藤原定家の『名月記』参照。

此の京のはじめを聞ける事は:平安遷都は桓武天皇の治世下であったから、ここの記述は正しくないが、桓武天皇の後に即位した平城<へいぜい>天皇は奈良への遷都を画策し、権力闘争の末に嵯峨天皇が即位(大同4年(809))して以来、平安京が安定したことを指すのかもしれない。ただし、400年にはならない 。

ことなるゆゑなくて:特別の理由があるわけでもないのに、の意。平家主導の遷都は、市井の人々にとって驚天動地の事態だったのである。

実にことわりにもすぎたり:「実に」は<げに>と読む。清盛の遷都の企ては人々に非難されたのである。
たゞ馬・鞍をのみ重くす。:人々が馬や鞍を重視して、牛車のようなものは使わないというのは、福原の都市計画が粗末で道路事情が悪かったからである。
西南海の領所を願ひて、東北の庄薗を好まず。:平家の勢力が安定していた西国地方を欲しがったのであって 、平家方にとっては治安の悪化していた源氏勢力の東海・北陸・東北には魅力が無かった 。

津の国の今の京にいたれり:摂津で大阪府と兵庫県にまたがる地域。今の京は遷都した「福原」のこと。1180年6月3日。12月には再度京都へ遷都した。

その地、ほど狭くて、条里をわるにたらず:「条里」の「条」は東西の区画を、「里」は南北の区画をいう。福原は土地が狭く京都の半分の面積しかなかったので「条里」を切れなかったのである。

彼木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて優なるかたも侍り:「木の丸殿<まろどの>」とは、その昔斉明天皇が新羅進攻に際して筑前に丸木の御所を造営したとされるところからこの呼び名が出た。福原の山中の御所は急造の粗末なものだったのだが、それがかえって様が変わって新鮮に見えるというような面も無いではなかった。

日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくにつくれるにかあるらむ:連日壊して、それを川も狭くなるほどに沢山の船で運び下しているのだが、この狭い新都の一体全体何処に作ろうというのであろうか。

なほむなしき地は多く、つくれる家は少し:それ程までに新築がなされているというのに、それでも空き地が多く、作られる家は都市景観からすればごく少なかったという。

ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり :京の都はすでに荒れ果ててしまったというのに、福原の新都は完成しない。 ありとあらゆる人々はみな漂白の思いを避けられなかったのである。

もとよりこの所にをるものは:昔からここ福原に住んでいた原住民たちは、来たり者に土地を奪われて不満だった。他方、越してきた都人にとっては新居を作るという工事が発生したのであるから大いに迷惑だった。

車に乗るべきは馬に乗り、衣冠・布衣なるべきは、多く直垂を着たり:道路が悪路なので車はうまく使えないので牛車に乗る身分の人は馬に乗り換え、「衣冠<いかん>」は公卿の宮中参内の折の勤務服で「布衣<ほい>」は狩衣で公家の平服だったのだが、未開の地のことゆえ、公家たちの服装は武士階級など身分の低いものが着る行動性のよい「直垂<ひたたれ>」を着用するようになったというのである。

世の乱るゝ瑞相とかきけるもしるく:人々の風俗習慣が急に変化するというのは、世の中が乱れる「瑞相<ずいそう>(現代語では瑞相は良い意味にしか使わないがここでは兆候の意味で使っているらしい)」というが、まさにそのとおりで、やがて人心は乱れ離反していった。

同じき年の冬、なほこの京に帰り給にき:人々の不安が的中したかっこうで、福原遷都は失敗し、11月26日京都に戻る。

伝へ聞く:以下の記述は、仁徳天皇の「民のかまど」に立ち上る煙の神話を引用。

二年があひだ、世中飢渇して、あさましき事侍りき :養和年間というのは1181年〜2年。幼帝安徳天皇時代の源平争乱の時代で、旱魃やら飢饉やら疫病やら、およそ良い事は無かった時代。

ぞめきうかれ騒ぎとか、にぎやかさ。花街を冷やかして歩く行為などもこれにあたる。

なべてならぬ法ども行はるれど:普段行われない特別な行法、の意。雨乞いなどを指す。

さのみやはみさをもつくりあへん:「みさを」は「操」で良い振りの意。田舎から物資が上がってこない以上、食い物にも困るようになるのでそう良い恰好をしてはいられなくなって、という意味。

目見立つる:興味関心を寄せること。

たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす:「かふる」は交換すること。物々交換である。貴金属のような嗜好品よりも米や雑穀のような食物に価値が置かれたことを言う。

まさゞまに、あとかたなし:「まさざま」は「増さり様」で物事が大げさになること。「あとかた」は混乱して形をなさない意。年が明けたら、事態はよくなるかと思いきや 、ますます悪化の一途をたどっていった 。また、ここに「あまりさへ疫癘うちそひて」の「あまりさへ」は「あまつさえ」の意、疫癘<えきれい>は伝染病のこと。悪いことに伝染病までが加わって事態は益々猖獗を極めたのである。

世人みなけいしぬれば:「けいしぬれば」の意味は不明だが、文脈から「餓える」と読める。みんな飢えていたので、の意か?

少水の魚のたとへにかなへり:「少水の魚<しょうすいのいお>」とは、余命いくばくもない状態を言う。

笠うち着、足ひきつゝみ、よろしき姿したる物、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く:笠をかぶったり、足を包む脚絆がある人なのだから、もとは豊かな生活をしていた人なのであろうが、物乞いをして歩いているというのである。

かくわびしれたるものどもの:このように弱ってしまった人たち。

すべきかたなきもの:他に手段の全く無い者達は、の意。寺院の仏像まで盗んで売り飛ばしているというのだ。

隆暁法印:<りゅうぎょうほういん>。村上源氏俊隆の子で仁和寺の僧 。法印は僧界の最高位 。

額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける:「阿字」<あじ>は、梵語の字母の第一文字だが、密教ではこの文字そのものを信仰の対象としている。⇒「阿字観」。ここでは、隆暁法印が死体の額に下図のような阿字をかいて、死者に仏縁を結ぶことで西方浄土への往生を祈願したこと。

七道諸国をや全国の集計をしたらばその死者の数は際限が無いであろう、の意。ここに「七道」は、東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の街道をいう。

長承のころとか:長承年間は1132年から35年まで。

大地<おおない>と読む。

道行く馬はあしの立ちどをまどはす:「立ちどをまどはす」は足元の定まらないことを言う 。

都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず:<・・ざいざいしょしょ、どうじゃびょうみょう、ひとつとしてまったからず>と読む。都のいたるところの建物という建物で無事なものは一つも無かった。「堂」は大きな建物、「舎」は小さな建物、「搭」はタワー、「廟」は墓や墓石。

四大種「地・水・火・風」を言う。仏教で世界を構成する元素。

斉衡平安時代初期、文徳天皇治世の年号で、西暦854年から857年 まで続いた。斉衡3年3月、大地震が発生。東大寺の大仏の頭が落ちるという事件があったことが知られている。

すべて、世中のありにくゝ、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさま、又、かくのごとし :そもそも世の中に暮らしにくく、わが身と住まいのはかなく頼りないことはざっとこのようなものなのだ。
所により、身のほどにしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて不可計:「不可計」は「かぞうべからず」と読む。環境により、身分により、心を悩ますことは数え切れない。
朝夕すぼき姿を恥ぢて:「すぼき」はみすぼらしいの意。朝な夕なにおのれの貧乏たらしい姿を恥ずかしく思い。
妻子・僮僕のうらやめるさまを見るにも:「僮僕」 <どうぼく>と読む。下僕のこと。女子供や下僕たちが卑屈になっている姿を見るにつけ。
福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも:「福家」は権門または富者のこと。<ふけ>または<ふっか>と読むか? 富者の大柄な態度について耳にするさえ。
心、念々に動きて:「念々」は時々刻々の意。心が千々に乱れ動くこと。
往反わづらひ多く:「往反」は<おうばん>と読む。行き来のこと。片田舎に住んでいると都市までの往復が厄介だということ 。
財あればおそれ多く、貧ければうらみ切也:財産のある者は盗られないかとそればかり心配し、貧しい者は不満ばかりが充溢しているのである。
人を頼めば、身、他の有なり:「有」は<う>と発音する。他人を頼みにすると、自分の体もその人のもののようになって、自由にはならず、自己が埋没すること 。
人をはぐくめば、心、恩愛につかはる:他人を愛すると、情愛に束縛されてしまう。
たまゆらも心を休むべき:「たまゆら」は片時もとか、瞬時にも、の意 。

  

頁 先頭

  れ、もののこころをしれりしより、よそじあまりのしゅんしゅうをおくれるあいだに、よのふしぎをみること、ややたびたびになりぬ。
 んじあんげん3ねん4がつ28にちかとよ。かぜはげしくふきてしずかならざりしよ、いぬのときばかり、みやこのたつみよりひいできて、いぬいにいたる。はてには、しゅ しゃくもん、だいこくでん、だいがくりょう、みんぶしょうなどまでうつりて、ひとよのうちにちりはいとなりにき。
 もとは、ひぐちとみのこうじとかや、まいびとをやどせるかりやよりいできたりけるとなん。ふきまどうかぜに、とかくうつりゆくほどに、おうぎをひろげたるがごとく、すえひろになりぬ。とおきいえはけむりにむせび、近きあたりはひたすらほのおをちにふきつけたり。そらにははいをふきたてたれば、ひのひかりにえいじて、あまねくくれないなるなかに、かぜにたえず、ふききられたるほのお、とぶがごとくしていちにちょうをこえつつうつりゆく。そのなかのひとうつしごころあらんや。あるいはけむりにむせびてたおれふし、あるいはほのおにまぐれてたちまちにしぬ。あるいはみひとつかろうじてのがるるも、しざいをとりいずるにおよばず。し っちんまんぽうさながらかいじんとなりにき。そのついえいくそばくぞ。そのたび、くぎょうのいえ16やけたり。ましてそのほかかぞへしるにおよばず。すべて、みやこのうち3ぶんが1におよべりとぞ。なんにょしぬるものすうじゅうにん、うまうしのたぐいへんさいをしらず。
 とのいとなみみなおろかなるなかに、さしもあやうききょうじゅうのいえをつくるとて、たからをついやし、こころをなやますことは、すぐれてあじきなくぞはべる 。
 た、じしょう4ねんうづきのころ、なかのみかどきょうごくのほどより、おおきなるつじかぜおこりて、6じょうわたりまでふきけることはべりき。
 3 4ちょうをふきまくるあいだに、こもれるいえども、おおきなるもちいさきもひとつとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたおれたるもあり、けた・はしらばかりのこれるもあり。かどをふきはなちてしごちょうがほかにおき、またかきをふきはらいてとなりとひとつになせり。いわんや、いえのうちのしざい、かずをつくしてそらにあり。ひわだ・ふきいたのたぐい、ふゆのこのはのかぜにみだるがごとし。ちりをけむりのごとくふきたてたれば、すべてめもみえず。おびたたしくなりどよむほどに、ものいうこえもきこえず。かのじごくのごうのかぜなりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。いえのそんもうせるのみにあらず。これをとりつくろうあいだに、みをそこない、かたわづけるひと、かずもしらず。このかぜひつじのかたにうつりゆきて、おおくのひとのなげきなせり。
 じかぜはつねにふくものなれど、かかることやある。ただごとにあらず、さるべきもののさとしかなどぞうたがいはべりし。
 た、じしょう4ねんみなづきのころ、にわかにみやこうつりはべりき。いとおもいのほかなりしことなり。おおかたこのきょうのはじめをきけることは、さがのてんのうのおんとき、みやことさだまりにけるよりのち、すでに4ひゃくよさいをへたり。ことなるゆえなくて、たやすくあらたるべくもあらねば、これをよのひとやすからずうれえあえる、げにことわりにもすぎたり。されどとかくいうかいなくて、みかどよりはじめたてまつりて、だいじんくぎょうみなことごとくうつろいたまいぬ。よにつかうるほどのひと、たれかひとりふるさとにのこりおらん。 つかさくらいにおもいをかけ、しゅくんのかげをたのむほどのひとは、いちにちなりともとくうつろわんとはげみ、ときをうしないよにあまされて、ごするところなきものは、うれえながらとどまりおり。のきをあらそいしひとのすまい、ひをへつつあれゆく。いえはこぼたれてよどがわにうかび、ちはめのまえにはたけとなる。ひとのこころみなあらたまりて、ただうまくらをのみおもくす。うしくるまをようするひとなし。せいなんかいのりょうしょをねがいて、とうほくのしょうえんをこのまず。

 のときおのずからことのたよりありて、つのくにのいまのきょうにいたれり。ところのありさまをみるに、そのちほどせまくて、じょうりをわるにたらず、きたはやまにそいてたかく、みなみはうみちかくてくだれり。なみのおとつねにかまびすしく、しおかぜことにはげし。だいりはやまのなかなれば、かのきのまろどのもかくやと、なかなかようかわりて、ゆうなるかたもはべり。ひびにこぼち、かわもせにはこびくだすいえ、いづくにつくれるにかあるらん。なおむなしきちはおおく、つくれるやはすくなし。こきょうはすでにあれて、しんとはいまだならず。 ありとしあるひとは、みなうきぐものおもいをなせり。もとよりこのところにおるものは、ちをうしないてうれう。いまうつれるひとは、どぼくのわずらいあることをなげく。みちのほとりをみれば、くるまにのるべきはうまにのり、いかん・ほいなるべきはおおくひたたれをきたり。みやこのてぶりたちまちにあらたまりて、ただひなびたるもののふにことならず。よのみだるるずいそうとかきけるもしるく、ひをへつつよのなかうきたちて、ひとのこころもおさまらず。たみのうれえついにむなしからざりければ、おなじきとしのふゆ、なおこのきょうにかえりたまいにき。されどこぼちわたせりしいえどもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとのようにしもつくらず。
 たえきく、いにしえのかしこきみよには、あわれみをもってくにをおさめたまう。すなわち、とのにかやふきても、のきをだに整えず、けむりのともしきをみたもうときは、かぎりあるみつぎものをさえゆるされき。これたみをめぐみ、よをたすけたもうによりてなり。いまのよのありさま、むかしになぞらえてしりぬべし。
 たようわのころとか、ひさしくなりておぼえず。 ふたとせがあいだ、よのなかけかつして、あさましきことはべりき。あるいははるなつひでり、あるいはあき、おおかぜ、おおみずなど、よからぬことどもうちつづきて、ごこくことごとくならず。むなしくはるかえし、なつううるいとなみありて、あきかりふゆおさむるぞめきはなし。
 れによりてくにぐにのたみ、あるいはちをすててさかいをいで、あるいはいえをわすれてやまにすむ。さまざまのおんいのりはじまりて、なべてならぬほうどもおこなわるれど、さらにそのしるしなし。きょうのならい、なにわざにつけても、みな、もとはいなかをこそたのめるに、たえてのぼるものなければ、さのみやはみさおもつくりあえん。ねんじわびつつ、さまざまのたからものかたはしよりすつるがごとくすれども、さらにめみたつるひとなし。たまたまかうるものは、こがねをかるくし、あわをおもくす。こつじきみちのほとりにおおく、うれえかなしむこえ、みみにみてり。
 ま
えのとし、かくのごとく、かろうじてくれぬ。あくるとしはたちなおるべきかとおもうほどに、あまりさええきれいうちそいて、まさざまにあとかたなし。よのひとみなけいしぬれば、ひをへつつきわまりゆくさま、しょうすいのいおのたとえにかなえり。はてには、かさうちき、あしひきつつみ、よろしきすがたしたるもの、ひたすらにいえごとにこいありく。かくわびしれたるものどもの、ありくかとみれば、すなわちたおれふしぬ。ついじのつら、みちのほとりにうえしぬるもののたぐい、かずもしらず。とりすつるわざもしらねば、くさきかせかいにみちみちて、かわりゆくかたち、ありさま、めもあてられぬことおおかり。いわんや、かわらなどには、うまくるまのいきかうみちだになし。あやしきしず、やまがつもちからつきて、たきぎさえともしくなりゆけば、たのむかたなきひとは、みずからいえをこぼちて、いちにいでてうる。ひとりがもちていでたるあたい、ひとひがいのちにだにおよばずとぞ。あやしきことは、たきぎのなかに、あかきにつき、はくなどところどころにみゆるき、あいまじりけるをたずぬれば、すべきかたなきもの、ふるでらにいたりてほとけをぬすみ、どうのもののぐをやぶりとりて、わりくだけるなりけり。じょくあくせにしもうまれあいて、かかるこころうきわざをなんみはべりし。
 たいとあわれなることもはべりき。さりがたきめ、おとこもちたるものは、そのおもいまさりてふかきもの、かならずさきだちてしぬ。そのゆえは、わがみはつぎにして、ひとをいたわしくおもうあいだに、まれまれえたるくいものをも、かれにゆずるによりてなり。されば、おやこあるものは、さだまれることにて、おやぞさきだちける。またははのいのちつきたるをしらずして、いとけなきこの、なおちちをすいつつふせるなどもありけり。
 んなじにりゅうぎょうほういんというひと、かくしつつかずもしらずしぬることをかなしみて、そのこうべのみゆるごとに、ひたいにあじをかきて、えんをむすばしむるわざをなんせられける。ひとかずをしらんとて、4・5りょうげつをかぞえたりければ、きょうのうち、いちじょうよりはみなみ、くじょうよりきた、きょうごくよりはにし、しゅじゃくよりはひがしの、みちのほとりなるかしら、すべて4まん2せん3びゃくあまりなんありける。いわんや、そのぜんごにしぬるものおおく、またかわら、しらかわ、にしのきょう、もろもろのへんちなどをくわえていわば、さいげんもあるべからず。いかにいわんや、しちどうしょこくをや。しゅとくいんのみくらいのとき、ちょうしょうのころとか、かかるためしありけりときけど、そのよのありさまはしらず。まのあたりめずらかなりしことなり。
 た、おなじころとかよ、おびただしくおおないふることはべりき。そのさま、よのつねならず。やまはくずれてかわをうずみ、うみはかたぶきてくがちをひたせり。つちさけてみずわきいで、いわおわれてたににまろびいる。なぎさこぐふねはなみにただよい、道行くうまはあしのたちどをまどわす。みやこのほとりには、ざいしょところどころ、どうしゃとうみょう、ひとつとしてまったからず。あるいはくずれ、あるいはたおれぬ。ちりはいたちのぼりて、さかりなるけぶりのごとし。ちのうごき、いえのやぶるるおと、いかずちにことならず。いえのうちにおれば、たちまちにひしげなんとす。はしりいずれば、ちわれさく。はねなければ、そらをもとぶべからず。りょうならばや、くもにものらん。おそれのなかにおそるべかりけるは、ただないなりけりとこそおぼえはべりしか。

(かねよしぼんにゆるついか)

 くおびただしくふることは、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしばたえず。よのつねおどろくほどのない、2、30どふらぬひはなし。とうかはつかすぎにしかば、ようようまどおになりて、あるいは4・5ど、2・3ど、もしはひとひまぜ、2・3にちにいちどなど、おおかたそのなごり、みつきばかりやはべりけん。
 だいしゅのなかにすいかふうはつねにがいをなせど、だいちにいたりてはことなるへんをなさず。むかしさいこうのころとか、おおないふりて、とうだいじのほとけのみぐしおちなど、いみじきことどもはべりけれど、なおこのたびにはしかずとぞ。すなわちは、ひとみなあじきなきことをのべて、いささかこころのにごりもうすらぐとみえしかど、つきひかさなり、としへにしのちは、ことばにかけていいいずるひとだになし。

 べてよのなかのありにくく、わがみとすみかとのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いわんや、ところにより、みのほどにしたがいつつ、こころをなやますことは、あげてかぞうべからず。
 しおのれがみかずならずして、けんもんのかたわらにおるものは、ふかくよろこぶことあれども、おおきにたのしむにあたわず。なげきせちなるときも、こえをあげてなくことなし。しん だいやすからず、たちいにつけておそれおののくさま、たとえば、すずめのたかのすにちかづけるがごとし。もしまずしくしてとめるいえのとなりにおるものは、あさゆうすぼきすがたをはじて、へつらいつついでいる。さいしとうぼくのうらやめるさまをみるにも、ふ くかのひとのないがしろなるけしきをきくにも、こころねんねんにうごきて、ときとしてやすからず。もしせばきちにおれば、ちかくえんしょうあるとき、そのさいをのがるることなし。もしへん ぢにあれば、おうばんわずらいおおく、とうぞくのなんはなはだし。またいきおいあるものはとんよくふかく、ひとりみなるものはひとにかろめらる。たからあればおそれおおく、まずしければ、うらみせちなり。ひとをたのめば、みたの ゆうなり。ひとをはぐくめば、こころおんあいにつかわる。よにしたがえば、みくるし。したがわねば、きょうせるににたり。いずれのところをしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこのみをやどし、たまゆらもこころをやすむべき。

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 現代語訳

 物心ついてより40年、この間に私は世の不思議を度々にわたって見てきた。あれは、去る安元3年4月28日だった。風が激しく吹いて騒がしい夜のことだった。午後八時をまわった頃、京の都の東南から出た火はまたたく間に西北に移っていった。やがて、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省など一夜にして灰燼に帰した。火元は、樋口富小路だとか。旅芸人を泊める仮屋だったという。吹き迷う風にあおられて火は扇を広げたように末広になって燃え広がっていった。遠いところの家々は煙に巻かれ、近くは炎が地面に吹きつけていた。吹き上げられた灰に炎が映って、空は真っ紅に染まり、その中を烈風にあおられてちぎれた焔が、一二町を飛び越えて延びていく。この業火の中に焼かれている人々 は、生きた心地もないだろう。ある者は、煙に巻かれて倒れ、またある者は、焔に目がくらんでたちまちに死んだ。また、身一つかろうじて逃げおおせたとしても、家財を取り出す間はなかった。七珍万宝、そのまま灰燼に帰したのである。その損失はいくばくか。
 このとき、公卿の家16軒が焼けた。その他の消失家屋の数は無数。都のうちの三分の一を消失し、死者は男女数十人、牛馬の類は数を知らず。人の営みはなにつけても愚か なものだとはいうが、このようにもあやうい京の都に家を構えるのに、財を費やし、心を悩ます、なんとも無益な事ではある。

 また、治承4年4月の頃、中御門京極の辺りから巨大なつむじ風が発生。六条付近まで吹いて行ったことがあった。三四町を吹きまくる間にその下にあった家々、大きいのも小さいのも一軒として破れなかったものは無かった。そのままぺしゃんこに潰れた家、桁や柱を残してすべて消えてしまった家、門が四五町も遠くへ飛ばされてしまった家、垣根が吹き飛んでしまって隣家との境の無くなってしまった家など。まして、家財はみな空中 高く飛散し、檜皮や葺き板などはまるで冬の木の葉が風に吹かれるようだ。巻き上げる塵は煙のように辺り一面見えなくしてしまう。その音もおびただしくて、ものなりは聞こえない。地獄の業風と言われるものはさぞかしこんなであろうと思われる。家の損亡だけに終わらない。被害を修復している間に怪我を負い、不具になってしまった人も無数。この風は最後には西南の方角に移っていったが、災難に遭遇した人々は実に多数であった。つむじ風は常に吹くものだが、このようなものは経験が無い。これは、ただ事ではな く何か神仏のお告げではないかと、人々は疑ったものだ。

 また、治承4年6月の頃、突如として遷都が行われた。これは、全く予想外の椿事であった。そもそもこの京の都のはじまりを聞くに、嵯峨天皇の治世、都として定めて以来すでに400年を経過した。余程のことが無ければ、これをたやすく改める事などない筈なので、世上の人々は大いに不安になったのだが、 それもげに当然であった。しかし、あれこれ言ってみてもその甲斐も無く、天皇をはじめ、大臣や公卿などみな遷って行ってしまった。公の職に就いている人たちは、誰一人として京に残るものは無かったのである。おのれの官位に腐心し、主君の恩顧をひたすら頼りにするような人々は、一日たりとも急いで移ろうと励み、反対に落ちぶれて時代から取り残され、前途に期待のもてない人々だけが、絶望しながら留まった。今まで、軒を競いあった人々がいなくなって、その住まいは日を経過するにつれて荒れていった。引越しの家々は分解されて、淀川を舟で運ばれ、その空いた土地は見る間に畠に変わっていった。人心は様変わり、馬を多用するようになり、牛車を使う人は無くなった。領国として西国を希望し、東日本の荘園を好まなくなった。
 この時期、私は攝津に所用があって、福原の新都を訪れる機会があった。その有様を見ると、その地は狭く、条里を作る面積が無い。北は山が高くそびえ、南は海に面して下がる。波の音が常にうるさく、潮風はことに激しい。内裏は山中にあるので、文字通り斉明天皇が新羅攻めの折に筑前朝倉に造ったと言い伝えられている「木の丸殿」もかくやと、なかなかに新鮮な感じがして優れたものであった。しかし、淀川の川幅も狭く感ずるほど多くの壊され た家々が運ばれていくというのに、一体全体それらが何処に再建されたというのであろうか。 新都の土地はなお空き地だらけで、作られる家は少なかったのである。

 古の京の都はすでに無く、されど新しい都は未完だ。この事態に、誰もかれも浮雲のような気分を味わっていた。以前からここ福原の地に住んでいた人々は、先祖伝来の土地を奪われて 悲しみ、いま移っていった者達は、建築の煩わしさを嘆く。道路では牛車に乗るべき人々が馬に乗り、衣冠装束や狩衣を着用していた人々がここでは直垂を着ていた。都の風はすっかり失われて、たんなる田舎の武士の姿と同じありさまとなった。
 世の乱れる前兆と聞いていたが全くそのとおり、日を経るにつれて世の中は浮き足立ったようになり、人心は乱れていった。人々の憂慮が現実のものとなったので、とうとうその年の冬、安徳天皇はこの京の都に帰ってきた。しかし、軒なみに破壊してしまった家々は、どうなったかといえば、すべてが旧のように再建されたのではなかったのである。
 言い伝えによれば、昔の聖天子の御代においては、憐みをもってまつりごとが行われたと聞く。御殿の茅を葺いたりとも、そのすそを整える出費はしなかったし、民のかまどから煙の立たない時には、平時の税も徴収しなかったと聞く。今の世のありさまは、 そういう昔に比べて貧しいと言わなくてはならない。

 また、養和の頃だったと思うが、もう古いこととて記憶も定かではないが。二年にわたって飢饉に見舞われ、実に筆舌に尽くし難い惨状があった。春や夏は旱魃に見舞われ、また秋は台風や洪水など災害に見舞われ、五穀ことごとく不作となった。春に土を耕運し、夏に作付けがなされたにもかかわらず、秋の刈入れ・冬の収穫の賑わいはついに無かったのである。
 これによって、各地の民、ある者は村を棄てて逃散し、またある者は家を棄てて山に住んだ。さまざまな祈祷が行われ、また普段行われないような特殊な修法が行われたりなどしたが、その効験といったものはついに現れなかった。京の人々の日常生活は、なんにつけても生活資源の元は田舎があってこそのものなのだが、上ってくる物や人が無い以上、そう何時までも上品に構えてばかりもいられない。耐乏生活に堪えられなくなって、片端から捨てるように 家財を売りに出すのだが一向に目にとまらない。たまたま物々交換に応ずるものがあっても、嗜好品ではなく、食い物に集中する。乞食が路傍に増え、物乞いする声が一帯に満ちていた。
 先の年はこうして辛うじて暮れた。その翌年は、飢餓は回復するだろうと思われたのだが、更に伝染病の流行が加わって、なお一層猖獗を極めたのである。
 世人皆が飢えに冒されて、日一日と窮状がきわまっていく様は、まさに「少水の魚」、水の干上がっていくたとえがぴったりの状況であった。果ては、笠をかぶり、脚を覆った、いかにも上流の身なりの人までもが、物乞いに歩く姿が見 られるようになった。弱々しい足取りで歩いていたかと見る間に、すぐに倒れ臥してしまう。塀の側、路傍に、飢え死にする人々無数。それらの死体を片付けることもできず、死臭は世界に満ち、屍が日に日に腐敗してかたちを変えていく様は目もあてられぬものであった。まして、鴨川河原などでは馬や人が歩くところすら無いありさまであった。
 賎民や山賎ですら力尽きて、燃料を売りに来ないので、頼るものの無い人々は自分の家を壊し、それを街に出て売る。こうして一人が街に出て一日かけて売った価が、なんと一日の命を支えられなかったという。怪しいことに、こうして売り出され る薪の中に赤い丹が着いたもの、金箔などの張ってあるものまで混じっているのを問い質してみると、困り果てた者達が古寺に入って仏像を盗み、堂内の仏具などを破り取ってきて、砕いたものであることが分かる。こんな濁悪な世に生れあいて、かくのごとき惨劇を目にしなくてはならないのであった。
 また、非常に悲しいことがあった。愛する妻をもった男、または離れがたい夫を持った妻らは、その愛情の強い方が決まって先に死んだ。なぜかといえば、自分より相手を不憫に思って、たまに手に入った食物も自分は食わないで相手に譲ってしまうからである。だから、親子ではかならず親が先に死ぬ。母が死んだのを知らないまま、いとけなき赤子が母の乳を吸いな がら臥せっている姿などがあったのである。
 仁和寺の隆暁法印という人は、こうして無数に死んでいく人々を悲しんで、その死体を見る度に、額に「阿字」を書いて、仏縁を結ぶ勤めをされた。人数を調べようというので、四月と五月の二月にわたって数えたところ、京の内、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の、路傍の死体だけで4万2,300余有ったという。いわんや、その前後に死んだものも多く、また河原・白河・西の京、さらにその周辺の地域などを加えて数えれば、際限も無かったであろう。まして、全国各地では大変な数に上った 筈だ。
 崇徳院の在世時代、すなわち長承年間の頃に、このような大飢饉の例があったと聞いてはいるが、その有様は知らない。目の当たりに見るこの窮状は実にものすごい体験であった。

 また、同じ頃だったが、大地震があった。
 その様子は、一通りのものではなかった。山は崩れ、河は埋もれ、海は傾いて、陸地を水浸しにした。大地が裂けてそこから水が湧き出す、岩が割れて谷に落下する。渚をこぐ舟は波に翻弄され、道行く馬は脚をとられた。都の周辺の至るところで、寺院の堂舎や塔廟で無傷のものはただの一つも無かった。或るものはくずれ、或るものは倒壊した。塵灰が立ち上って、まるで煙のようだった。大地の動き、家の破れる音はまるで雷鳴のよう。家の中にいると、たちまち押し潰されそうになる。走り出せば、地割れが襲う。
 鳥ではないので羽も無ければ空も飛べず。龍ならねば、雲にも乗れず。恐ろしいものとしては地震に勝るものはないと分かった。
 このように激しい地震は、しばらくして止んだのだが、その余震はしばらく続いた。何時もならびっくり仰天するような大きな地震が、2、30回来ない日はなかった。10日、20日過ぎて、ようよう間遠になり、或いは日に4、5回、2、3回、あるいは一日おきに一度、2、3日に一度などととなり、3月ばかりしてようやく止んだ。

 四大種の中で、大水・大火・大風は常に害をなすことが知られているが、大地が害をなすことなどは滅多に無い。昔、文徳天皇の御代に大地震があって、東大寺の仏像の首が落ちたなどの被害が伝えられているが、それとてもこれほどのものではなかったという。事件の直後は、人々は皆事態のむなしさについて語り合っていたが、やがて平安を取り戻したか、月日の経過とともに口に出して言い出す人も無くなっていった。

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