冬の日脚注(2/5)


おもへども壮年いまだころも振はず    野水
はつ雪のことしも袴きてかへる
詞書の「おもへども壮年いまだころも振はず」の「ころもを振るう」は、「衣を着替える」、つまりリタイアして楽隠居を決め込むこと。この頃、野水は男盛りの町役人であった。
 それゆえ、自分はこうして現職のまま羽織袴の役人生活を続けている。初雪の今日もかわりばえしない姿で家路に着く。はやく楽隠居したいものだというのであろう。

 霜にまだ見る蕣の食       杜國
<しもにまだみるあさがおのめし>と読む。霜の降りる季節になったというのに未だ朝顔が咲いている。その花を見ながら町役人として出仕する。芭蕉の句「朝顔に我は飯食う男哉」を意識しているかもしれない。

野菊までたづぬる蝶の羽おれて   芭蕉
そんな秋の日、蝶は最後の気力を振り絞って野菊の花に辿り着いた。その羽はもうすっかり痛んでいる。

 うづらふけれとくるまひきけり  荷兮
「うづら」はウズラ(鶉)のことでこの時代ウズラを飼育することが一大流行であった。そのウズラが鳴くことを「ふける」と言った。したがって「ふけれ」はその命令形。車を牽いて郊外にまで出かけてウズラに鳴声の練習をさせようと言う風流人がこの秋の季節にいるもんだ、というのであろう。

麻呂が月袖に鞨鼓をならすらん   重五
<まろがつきそでにかつこをならすらん>。「鞨鼓」は雅楽器。その風流人は実は殿上人で、秋の野の夕ぐれに、「私の月が出てきたことだから、ちょっと鼓を打ってみようか」などといって鞨鼓を奏でている。

 桃花をたをる貞徳の富      正平
「貞徳」は松永貞徳のこと。貞徳が晩年長頭丸と称したので、「丸<まろ>」と上の「麻呂」を引っ掛けて、「麻呂が月」などという豊かさを貞徳のものとすり替えたのである。

雨こゆる浅香の田螺ほりうへて   杜國
<あめこゆるあさかのたにしほりうえて>。浅香は安積で今の福島県。ここは芭蕉が「花かつみ」なるものの正体を見ようと言うので探し回ってついに分からなかったことが『奥の細道』にある沼のこと。安積沼はその名のとおり浅いので五月雨であふれてしまう。その沼のタニシを貞徳ならば京都まで取り寄せる事だってできただろう。

 奥のきさらぎを只なきになく   野水
こうして都まで連れてこられた安積沼のタニシ達はみちのくの如月をしのんでただただ悲しく泣くことだろう。

床ふけて語ればいとこなる男    荷兮
<とこふけてかたれば・・>。ただひたすらに泣くのはほかでもない。女郎屋で客に取った男が、夜更けて語り合ったらばなんと自分と従兄にあたるという。その運命の悲しさに泣いているのです。タニシが泣くことから、男女の秘め事に転化した。

 縁さまたげの恨みのこりし    はせを
<えんさまたげのうらみのこりし>。本当はこの男女、いとこ同士で将来結婚を約束した仲だった。それなのに運命のいたずらでこのように女は苦界に身を落すはめにおちいった。その身の悲しみを考えると…ああ。

口おしと瘤をちぎるちからなき   野水
<くちおしとふすべをちぎる・・>。このように縁が遠くなったのも、この瘤<こぶ>が有るからで・・。とんだ展開となった。

 明日はかたきにくび送りせん   重五
こうなったら、明日は腹を掻き切ってこの首を敵に渡してやろう。

小三太に盃とらせひとつうたひ   芭蕉
<こそうだにさかづきとらせ・・>。身の回りの世話をしてもらった付き人の小三太にも一献酒を飲ませて、自分も一曲謡を歌い。最後の夜を過している。どうやらろう城戦に破れた城主のようだ。

 月は遅かれ牡丹ぬす人      杜國
<つきはおそかれぼたんぬすびと>。その夜は、月の出が遅く、暗闇にまぎれて牡丹の花を盗む盗人がひとり。

縄あみのかゞりはやぶれ壁落て   重五
<なわあみのかがりはやぶれかべおちて>。すでに屋根は破れ、それを修復するために魚網をかぶせてあるのだが、そんな貧しい家にも牡丹が爛漫と咲き誇っているのである。

 こつこつとのみ地蔵切町     荷兮
<こつこつとのみじぞうきるまち>。淋しく貧しい漁村のあばら家ばかりがつづく。そのなかで地蔵さんを彫る石屋がさかんにのみの音を出している。

初はなの世とや嫁のいかめしく   杜國
<はつはなのよとやよめりのいかめしく>。そんな貧しい集落でも、嫁入りがの花嫁が通りをしずしずと行進している。

 かぶろいくらの春ぞかはゆき   野水
「かぶろ」は少女のこと。前句の花嫁についてきた添い嫁であろう。まだ年端もいかない少女の春は浅い。

櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる  かけい
「餅すゆる」は餅をすえるの意。前句の「かぶろ」はおいらんの身の回りの世話をする雑用係「禿<かぶろ>」。その花魁とかぶろの二人にも新春がやってきた。春を祝うというので、寝室の櫛箱の上に鏡餅を供えてある。何となく春めいてもいるのである。

 うぐひす起よ帋燭とぼして    芭蕉
<うぐいすおきよしそくとぼして>。「紙燭」は紙をよって油にしみこませて蝋燭がわりにした照明。春とはいえまだ寒い。籠の鶯はまだ初音を聞かせたはくれない。そこでもう朝が早くなった季節だと勘違いさせるために明かりを灯して朝の早いことをウグイスに知らせようという算段。

篠ふかく梢は柿の蔕さびし     野水
<しのふかくこずえはかきのへたさびし>。「柿の蔕」は柿の実のガクのこと。この季節はといえば、すでに実は落ちて、柿の小枝にガクだけが残っている。笹の生い茂った藪の中の古径。

 三線からん不破のせき人     重五
<さんせんからんふわのせきびと>。不破は美濃にある関所跡。この篠の小路は不破の関跡。ここに住む人よ、三味線を貸してください。関を越すのに一曲奏でて通りたいから。

道すがら美濃で打ける碁を忘る   芭蕉
私は,三味線はできないが、美濃を旅するうちに碁をおぼえました。しかし、それもどうも関所を渡って他国に入ると忘れてしまいそうで。

 ねざめねざめのさても七十    杜國
それはごもっともで、もはや夜の暗いうちから目が覚めるような70歳の老人ともなれば今日のことも忘れてしまうのですから。碁をおぼえたといっても忘れるのは致し方ないこと。

奉加めす御堂に金うちになひ    重五
<ほうがめすみどうにこがねうちにない>。「奉加めす」は寺院などに金品を寄贈すること。齢70ともなればあの世が近いというので、お寺に御堂の建立の資金をたいまい寄付して、来世を祈る気持ちにもなりますよ。

 ひとつの傘の下擧りさす     荷兮
<ひとつのかさのしたこぞりさす>。「挙りさす」は笠の下に大勢の人が群れているさま。お寺に寄付した老人というのはただの人じゃなくて、大変身分の高い人で、その人が寺に笠をさして行くと、その笠の下に大勢の群集がついて寄付をしに行くのです。

池に鷺の子遊ぶ夕ま暮      杜國
<はすいけにさぎのこあそぶゆうまぐれ>。前句の笠を蓮の葉に置き換えたもの。蓮池の蓮の下葉でサギの子供たちがすいすいと泳ぎまわっています。今夕暮れ時。

 まどに手づから薄様をすき    野水
<まどにてずからうすようをすき>。「薄様」は、ここではうすい障子紙のこと。蓮池のサギの子供たちが見えるように書院の丸窓の障子紙を自らうすく漉いています。

月にたてる唐輪の髪の赤枯て    荷兮
<つきにたてるからわのかみのあかがれて>。「唐輪」は中国伝来と言われていたヘアースタイル。そんな夕方、唐輪の髪をした女がかいがいしく働いている。みれば髪の毛も手入れが悪いのか赤茶けて見える。

 戀せぬきぬた臨済をまつ     はせを
<こいせぬきぬたりんざいをまつ>。「砧」は恋のキーワードであるが、ここでは老婆であるからもはや恋とは無縁になってしまった。そんな老婆が打つ砧は、恋人の忍んでくるのを待つのではなく、臨済の僧侶の来るのを待っているです。

秋蝉の虚に聲きくしずかさは    野水
<しゅうぜんのからにこえきくしずかさは>。「秋蝉の虚」とはひぐらし蝉のぬけがらのこと。前句の恋を超越した老婆のように、ヒグラシゼミの抜け殻から鳴声を聞くように静かな悟りの境地ですね。

 藤の實つたふ雫ほつちり     重五
<ふじのみつたうしずくほっちり>。ヒグラシゼミの抜け殻に鳴声を聞くほどであれば、藤の実に伝って落ちる雨の雫の音も聞えるであろう。前句の「虚」に「実」で反応したのである。

袂より硯をひらき山かげに     芭蕉
<たもとよりすずりをひらきやまかげに>。袂から硯を取り出して、前句の藤の実から落ちてきた水で墨をすり、一句ひねってみる。山蔭の道で。

 ひとりは典侍の局か内侍か    杜國
<ひとりはすけのつぼねかないしか>。山中で硯を取り出して詩を書いているなどという人はどこかの局の内侍であろう。

三ケの花鸚鵡尾ながの鳥いくさ   重五
<みかのはなおうむおながのとりいくさ>。そんな高貴のお方は、三月三日の闘鶏の行事には美しいオウムやおなが鳥を出すことであろう。

 しらがみいさむ越の独活苅    荷兮
<しらかみいさむこしのうどかり>。そんな三月三日には、白髪の老人が越後の独活を収穫に山へ行くことでしょう。独活は、春に宮中に越後の国から上納されていた。


 
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