ひさご


   花見

                           

木のもとに汁も膾も櫻かな

 西日のどかによき天気なり    珍碩
<にしびのどかに よきてんきなり>。脇句。発句の花見は伊賀上野で行われたもの。この花見は延々と夕方まで行われたという。

旅人の虱かき行春暮て       曲水
<たびびとの しらみかきゆく はるくれて>。第三。晩春の夕暮れのこと。旅人は花見虱に食われた痕を掻きかき街道を去っていく。

 はきも習はぬ太刀のひきはだ   翁
<はきもならわぬ たちのひきはだ>。「ひきはだ」は、蟇肌革(ヒキガエルの肌のようにしわの寄った皮革)で作った刀のさや袋(『大辞林』)。太刀は腰に付けられないほど長い刀。この虱を掻きながら行く旅人は、やくざなどでまともな帯刀の侍などではないらしい。刀の佩き方もよく知らないようだ。

月待て假の内裏の司召       碩
<つきまちて かりのだいりの つかさめし>。「司召」は、朝廷で行われた任官式典で、室町末期までは8月11日に行われてきたが戦国時代になって消滅したという。前句の、太刀を持って歩いていたのは、合戦に徴用された百姓が戦闘用の太刀を持って帰郷する姿と見て、都は荒れ果てて内裏も吉野辺りに逃れてその仮の宮廷で任官式が行われたとした。

 籾臼つくる杣がはやわざ     水
<もみうすつくる そまがはやわざ>。「杣」は、杣人できこりのこと。そんな吉野の山奥では、土地のきこりたちはいとも短時間に籾臼一つ作ってしまう。その早業に驚く都人士。内裏の生活経験の乏しい人々と先住者の対比をここに出した。

鞍置る三歳駒に秋の來て      翁
<くらおける さんさいこまに あきのきて>。秋は馬の肥える季節。元気な三歳馬に鞍をつけてこれから臼の素材となるケヤキを伐採に山仕事に出かけるのである。

 名はさまざまに降替る雨     碵
<なはさまざまに ふりかわるあめ>。この三年の間さまざまな呼び名の雨が降ってきた。この馬もそれらを経験してきたことだ。日本では季節季節に降る雨の名前が変わる。梅雨、時雨、春雨、菜種梅雨、五月雨、秋雨、氷雨 等々。

入込に諏訪の涌湯の夕ま暮     水
<いりごみに すわのいでゆの ゆうまぐれ>。「入込」は一つ処に大勢が入り込んで混雑すること。「諏訪」は長野県の上諏訪で日本のスイスと言われるように時計などを中心とした精密工業のメッカだが、温泉地としても有名。夕暮れ時の温泉、一風呂浴びて帰ろうという人々でごった返している。前句の、「さまざま」に呼応したつもり。

 中にもせいの高き山伏      翁
<なかにもせいの たかきやまぶし>。風呂に入っている群衆の中で、ひときわ背の高い山伏が入っている。中山道を旅する修験者であろう。

いふ事を唯一方え落しけり     碵
<いうことを ただいっぽうへ おとしけり>。この入浴中の山伏は、集団の中の幹部らしい。何しろ他人の言うことは聞かず一方的に自説を通す人。

 ほそき筋より恋つのりつゝ    水
<ほそきすじより こいつのりつつ>。なかなか恋の道は貫通しない。前句を、相手の反応の無いことと見て恋の句に変じた。

物おもふ身にもの喰へとせつかれて 翁
<ものおもう みにものくえと せつかれて>。つのる恋に食欲も失ってしまったのに、周囲から食え食えとせつかれる辛さ。

 月見る顔の袖おもき露      碵
<つきみるかおの そでおもきつゆ>。涙で袖が濡れて重くなった。そんな顔をして月を眺めている。

秋風の船をこはがる波の音     水
<あきかぜの ふねをこわがる なみのおと>。月見の舟を出したが秋風に舟はゆれ、波が激しく船体を打つ。人々はその音を怖がる。

 雁ゆくかたや白子若松      翁
<かりゆくかたや しろこわかまつ>。「白子・若松」は三重県鈴鹿市近鉄沾沿線にある地名。

千部讀花の盛の一身田       碵
<せんぶよむ はなのさかりの いしんでん>。千部経を読誦しながら花の盛りの一身田まで歩いていく。一身田は浄土真宗高田派の専修寺がある。前句の白子に呼応して釈教の座。

 巡禮死ぬる道のかげろふ     水
<じゅんれいしぬる みちのかげろう>。読経の続く遍路の道には巡礼の行倒れが一つ。死者の肩から陽炎が燃え立って、いま春の盛り。

何よりも蝶の現ぞあはれなる    翁
<なによりも ちょうのうつつぞ あわれなる>。 そこへ一羽の胡蝶が舞い降りてきて、死者の背中にとまる。飛び立った魂が現実の身体に戻りたがっているようで哀れをもよおす。

 文書ほどの力さへなき      碵
<ふみかくほどの ちからさえなき>。悲しみにひしがれて手紙を書く気力すら残ってはいない。

羅に日をいとはるゝ御かたち    水
<うすものに ひをいとわるる おんかたち>。前句の文書は恋文として、うすものを着てまぶしい太陽を避けながらしずかに歩いていくなよやかな美しい女性に宛てたものとする。

 熊野みたきと泣給ひけり     翁
<くまのみたきと なきたまえり>。前句の女性は、平惟盛夫人とするのが定説。惟盛は清盛の嫡孫。壇ノ浦から逃げ帰って熊野に身をひそめたが、源氏の追及に抗しきれず海に身を投げて自害したとされる。夫人はその後を弔いたいと泣いているのである。

手束弓紀の関守が頑に       碵
<たつかゆみ きのせきもりが かたくなに>。惟盛夫人が夫の終焉の地を見舞いたいとやってきたものの、手束弓を持った鈴鹿の関守が頑固に通行を拒否する。

 酒ではげたるあたま成覧     水
<さけではげたる あたまなるらん> 。その頭の固い関守は酒の呑みすぎで禿げてしまった頭をしていたに違いない。

双六の目をのぞくまで暮かゝり   翁
<すごろくの めをのぞくまで くれかかり>。この男、酒で頭が禿げるほどの放蕩ぶりだが、加えて博打もやる。暮れて目が読めなくなるほどの時間までサイコロを振っているのだ。飲む打つ買うだ。

 假の持佛にむかふ念仏      碵
<かりのじぶつに むかうねんぶつ>。旅の宿の情景。一方で博打に興ずる者がいれば、もう一方には持佛像を祀ってそれに一心不乱に読経する者がいたりする。

中々に土間に居れば蚤もなし    水
<なかなかに どまにすわれば のみもなし>。また、別の者は土間に筵を敷いて寝ている。ここなら蚤がいないよというのである。前句を旅宿の様々な人々の描写と見て。

 我名は里のなぶりもの也     翁
<わがなはさとの なぶりものなり>。かく言う俺は里に帰れば皆からのけ者にされている評判の悪い男でね。

憎れていらぬ躍の肝を煎      碵
<にくまれて いらぬおどりの きもをいり>。というのも村祭りの踊りの振り付けなど要らぬ世話を村人にするから煩がられるのであるが。

 月夜つきよに明渡る月      水
<つきつきよに あけわたるつき>。月夜の晩に開かれる秋祭りの踊りも間近。あああの明るい月よ。

花薄あまりまねけばうら枯て    翁
<はなすすき あまりまねけば うらがれて>。ススキの穂は風に揺れてお辞儀をする。これをまねく行為と擬人化したのである。薄の穂は月夜の度に人を招いているうちに草臥れて枯れてしまった。

 唯四方なる草庵の露       碵
<ただよほうなる そうあんのつゆ>。薄が枯れて秋が深まってくると、四角形のこの草庵も朝露に濡れる。

一貫の錢むつかしと返しけり    水
<いっかんの ぜにむつかしと かえしけり>。この草庵の庵主は潔癖な人で、一貫(1千文)の銭を提供しようといったら、要らないとはねつけた。この頃芭蕉は曲水らに無名庵を作ってもらっているが、永久に住むつもりはないと質素なものとするよう要求していた。

 醫者のくすりは飲ぬ分別     翁
<いしゃのくすりは のめぬふんべつ>。禁欲的な態度は薬にも及び、医者の処方した薬は一切飲まないという分別がある。

花咲けば芳野あたりを欠廻     水
<はなさけば よしのあたりを かけめぐり>。この人、花が咲けば吉野あたりをほっつき歩いて、実に健脚。医者の薬などそもそも不要なのかも。

 虻にさゝるゝ春の山中      碵
<あぶにささるる はるのやまなか>。さりとて春の山路はアブがいて刺される。それでも薬が要らないかどうか?

   翁  十二

   珍碩 十二

   曲水 十二


                 珍碩

いろいろの名もむつかしや春の草
<いろいろの なもむつかしや はるのくさ>。中七「名もむつかしや」は、はじめ「名もまぎらはし」だったものが、覆刻版後にこの形になった。春の草花は一斉に芽を吹いて、それに全て名前がついているのだからその名を覚えるには(まぎらわしくて)難しい。 芭蕉の唱導する「不易流行」や「かるみ」といった「新風」を春の草花に喩えた一句。

 うたれて蝶の夢はさめぬる     翁
<うたれてちょうの ゆめはさめぬる>。その花の中で眠りをむさぼっている蝶は、春が来たぞと草原を鞭打つ鞭の音に目を覚まして飛び立つのである。

蝙蝠ののどかにつらをさし出て   路通
<こうもりの のどかにつらを さしだして>。木の上では眠りをむさぼっていたコウモリが寝ぼけまなこをしながら、下で起こっていることを見ていることだ。路通が自らをフクロウになぞらえて卑下している。

 駕篭のとをらぬ峠越たり      仝
<かごのとおらぬ とうげこえたり>。とうとう籠も通れないような細く寂しい峠を越えてはるかな土地へやってきた。芭蕉の新風を峠を越えることに喩えた。

紫蘇の實をかますに入るゝ夕ま暮   碵
<しそのみを かますにいれる ゆうまぐれ>。峠を下ってくると、麓の農家ではシソの実を収穫して、それをカマスに詰めているところだ。シソのみの収穫を新風の理解と取るのは深読みに過ぎるか?

 親子ならびて月に物くふ      仝
<おやこならびて つきにものくう>。遅くまでかかった農作業のために、月を見ながら親子は縁側で夕食をとっている。

秋の色宮ものぞかせ給ひけり     通
<あきのいろ みやものぞかせ たまいけり>。「宮」はやんごとなき身分の人の意。前句の親子の「子」はみめ美しい女性であろう。彼女の美しさにハッとして宮が覗き込んだのである。美しい秋の月の夜のこと。

 こそぐられてはわらふ俤      仝
<こそぐられては わらうおもかげ>。宮はこの女性を「もの」にして、宮殿に帰ると中睦まじく女をくすぐったりするものだから女性がクスッと笑ったらしい?

うつり香の羽織を首にひきまきて   碵
<うつりかの はおりをくびに ひきまきて>。前句を、華街帰りの遊び人として。女のうつり香の残る羽織を首に巻きつけてその残り香をかぎながらニヤニヤして朝帰り。馬鹿な男だ!!

 小六うたひし市のかへるさ     仝
<ころくうたいし いちのかえるさ>。「小六」は当時流行った流行歌。鼻歌まじりに市からの帰り道。この気障な男、市の立った街ではちょっとした不真面目な行為もしてきたのではないか。

鮠釣のちいさく見ゆる川の端     通
<はえつりの ちいさくみゆる かわのはし>。男が帰る土手から見ると、川端ではやを釣っている釣り人の姿は点のように小さく見える 。

 念佛申ておがむみづがき      仝
<ねんぶつもうして おがむみずがき> 。「みずがき」は「瑞垣=神社や宮殿の垣根」で神社仏閣にかかる枕詞でもある。釣り人を眺めながら土手を行く人は信心深く、社や山門を見ればすぐに念仏を唱える信心深い人。

こしらえし薬もうれず年の暮     碵
<こしらえし くすりもうれず としのくれ>。念仏を唱えるのは神仏にお願いするしかない程に、薬売りの商売がさっぱり繁盛しないからである。年の瀬が迫ってきたというのに秋に作った薬がさっぱり売れないのだ。奈良吉野地方は売薬商売が盛んだった。

 庄野ゝ里の犬におどされ      仝
<しょうののさとの いぬにおどされ>。「庄野」は三重県鈴鹿市にある地名。東海道第45番目の宿場町。庄野の雨は広重の絵で有名。前句の薬売りは、ここで犬に吠え立てられて踏んだり蹴ったりである。

旅姿稚き人の嫗つれて        通
<たびすがた おさなきひとの うばつれて>。伊勢参宮でもしようというのか、子供が老女に手を引かれて東海道を歩いていると、庄野のあたりで犬に吠えられている。かわいそうに。

 花はあかいよ月は朧夜       仝
<はなはあかいよ つきはおぼろよ>。老女と子供は、言葉の掛け合い遊びをしながら歩いていく。子供が「花は」と言うと老女が「赤いよ」と答え、老女が「月は」と言えば子供が「朧よ」と答える。

しほのさす縁の下迄和日なり     碵
<しおのさす えんのしたまで うららなり>。縁の下まで潮が満ちてくる別宅。そこには朧月がさして、真っ赤な花が咲いている。うららかな春の夜。

 生鯛あがる浦の春哉        仝
<いきだいあがる うらのはるかな>。浜では生きた鯛が揚がる。いま、鯛漁のシーズン真っ只中。

此村の廣きに醫者のなかりけり   荷兮
<このむらの ひろきにいしゃの なかりけり>。この浜は大きな村だが、村人はみな健康で鯛を食って元気。だから医者要らずの無医村であるという。

 そろばんをけばものしりといふ   越
<そろばんおけば ものしりという>。前句をくさす方向に転じて。村人の多くは、ソロバンが使える人を「博識」といって感心するくらいの知的レベルの低い村だ。だから、医者もいないのだ。

かはらざる世を退屈もせずに過    兮
<かわらざる よをたいくつも せずにすぎ>。ソロバンなど一通りの基礎学修ができていたので、退屈もせずにこの変哲もない世を生きながらえてこられた。ありがたいことだ。ソロバンを使うのを自分とした。

 また泣出す酒のさめぎは      人
<またなきいだす さけのさめぎわ>。俺の人生は平々凡々、何てこともなく可もなければ不可も無い。こういって酒が冷める頃になるときまって泣き出す泣き上戸。

ながめやる秋の夕ぞだゞびろき    兮
<ながまやる あきのゆうべぞ だだびろき>。秋、人生の秋。この空漠とした広さの眺めと同様、なんてドラマも無い人生であったことか。前句の男の感慨を続けて付けた。

 蕎麥眞白に山の胴中        人
<そばまっしろに やまのどうなか>。だだっぴろい山の中腹は一面のそば畑。いま、秋蕎麦の花盛りで、山は真っ白。

うどんうつ里のはづれの月の影    兮
<うどんうつ さとのはずれの つきのかげ>。村はずれの民家からうどんをのし棒で打つ音が聞こえてくる。前句を夜の月影に白く浮き出た蕎麦畠の景色と見た。

 すもゝもつ子のみな裸むし     人
<すもももつこの みなはだかむし>。前句を春蕎麦として季を移した。村の子供たちはスモモを頬張っているのだが、みんな裸虫といった塩梅で元気。

めづらしやまゆ烹也と立どまり    兮
<めずらしや まゆにるなりと たちどまり>。繭を煮てやわらかくしてから繭をほどいていくのが糸取りである。都会人にははじめて見る光景だから珍しい。旅の途中にそんな農家の軒先を立ち止まって見ていく。

 文殊の知恵も槃特が愚痴      人
<もんじゅのちえも はんどくがぐち>。都会人の旅人は自分は絹を着ているのに、絹を作る技を知らない。それは愚者たる草莽の農民が知っている。だから賢者たる文殊の知恵などというものは、愚者たる槃特の知恵に劣る。

なれ加減又とは出來ジひしほ味噌   兮
<なれかげん またとはできじ ひしおみそ>。 「ひしお味噌」は醤油のもろみの、しぼる前のもの(『大辞林』)。熟練の技術で又とないもろみ味を出している。熟練の知恵、臨床に技。

 何ともせぬに落る釣棚       人
<なんともせぬに おちるつりだな>。前句を失敗表現と取って。まるで何もしないのに吊り棚が落ちてきたように、味噌作りというのはいくら慣れても必ずうまくできるとは限らないもの。

しのぶ夜のおかしうなりて笑出ス   兮
<しのぶよの おかしゅうなりて わらいだす>。女の寝床を夜這いしようとして忍んで行ったら、別に触ったわけでもない吊り棚が落ちてきたのだが、思い出しただけでもおかしくなってくる。

 逢ふより顔を見ぬ別して      仝
<あうよりかおを みぬわかれして>。夜這いした女ときたら、それっきり見たくなくなるような顔をしていたので、しっかりと別れてきた。つまり、女が醜女だったということ。

汗の香をかヾえて衣をとり残し    人
<あせのかを かがえてきぬを とりのこし> 。汗の香りのする着物を残して、あの人はそこには居なかった。忍んで来る男の予感を感じて女は姿を隠したのであろう。王朝文学の中の男女の世界。

 しきりに雨はうちあけてふる    仝
<しきりにあめは うちあけてふる>。その夜には、雨がことのほか強く降っていた。これら一連の話は源氏物語の雨夜の品定めの雰囲気を俳諧化してきたものであろう。

花ざかり又百人の膳立に       兮
<はなざかり またひゃくにんの ぜんだてに> 。花見客用に弁当百人分作っていたところ、この雨。又々仕入れ倒れになったか。

 春は旅ともおもはざる旅      仝
<はるはたびとも おもわざるたび>。花盛りの時期の春の旅は、苦しいものであるはずの旅とも思えないほど楽しいことだ。 前句の百人分の膳は、団体行列の弁当である。

   珍碩  九

   翁   一

   路通  八

   荷兮  十

   越人  八


   城下

                 野徑

鐵砲の遠音に曇る卯月哉
<てっぽうの とうねにくもる うづきかな>。膳所(大津)の城下町。ここでは、城の鉄砲の訓練が、火薬の性能チェックも含めて毎年四月朔日に行われたという。その遠くに鳴る鉄砲の音が春の花曇の卯月の空に響いている。
 ところで、四月朔日は衣更え、人々は鉄砲の音で衣更えに気がついたのである。

 砂の小麥の痩てはらはら      里東
<すなのこむぎの やせてはらはら>。鉄砲の訓練場である鉄砲場は湖の浜辺に近いところの砂地の痩せ地。だから、四月だというのに付近の畑の麦はぱらぱらとしか生えていない。

西風にますほの小貝拾はせて     泥土
<にしかぜに ますほのこがい ひろわせて>。西風が吹くと貝は東の岸に寄せられてくる。その中には、ますほの小貝も混じっている。ますほの小貝は、日本海敦賀の種の浜の貝だからもとより琵琶湖に入ってくるわけもないが、先年芭蕉が訪れたところからの連想であろう。

 なまぬる一つ餬ひかねたり     乙州
<なまぬるひとつ もらいかねたり>。浜の漁民は一心不乱に貝を獲っている。風流人の自分はますほの小貝などという役に立たない貝を拾っている。人々の働きぶりにお茶をくれとも言えなくなって、喉が渇いたけれども我慢している。

碁いさかひ二人しらける有明に    怒誰
<ごいさかい ふたりしらける ありあけに>。有明の時刻まで、夜を徹して碁を打ってきたが、激しい戦いに二人の関係は気まずくなってきた。それゆえ、ライバルのこの家の主人にぬるま湯を一杯くれとは言えなくなってしまったのであろう。

 秋の夜番の物もうの聲       珍碩
<あきのやばんの ものもうのこえ>。「物もう」は、夜警の者の「たのもう」とたずねる声をかけてくること。ここでは、夜明けまで灯をともしながら碁を打っている行灯の灯がこぼれたか、口論の声が聞こえたので秋の夜番が声をかけたのである。

女郎花心細氣におそはれて      筆
<おみなえし こころほそげに おそわれて>。夜番の尋問に、女郎花(売春婦)は心細くなってしまって。

 目の中おもく見遣がちなる     野徑
<めのなかおもく みやりがちなる>。そうなると、心はふさがって物を見る目が心ぐらいものにならざるを得ないのである。

けふも又川原咄しをよく覺え     里東
<きょうもまた かわらばなしを よくおぼえ>。前句の「目の中おもく見遣がち」になるのは、病人の特徴。そこで、この病人を慰めようと芝居を良く見てきて話してあげる。それによって病人の目が重くなくなるのであろう。

 顔のおかしき生つき也       泥土
<かおのおかしき うまれつきなり>。芸人になったつもりで芝居を再現して見せたりするのだが、顔のおかしさが生まれつきなので二枚目というわけには行かない。

馬に召神主殿をうらやみて      乙州
<うまにめす かんぬしどのを うらやみて>。祭りの行列。先頭を行くのは馬に乗った神主。馬に乗れるというのはうらやましいが、しかし、彼の顔は生まれつきブオトコで。劣等感を顔で挽回しているのである。

 一里こぞり山の下苅        怒誰
<ひとさとこぞり やまのしたがり>。「したがり」は森の下草などを伐採して、木の生育を助けること。今日は村人総出で下草刈りをしているのである。それを横目で見ながら神主が馬に乗って通りかかる。ホワイトカラーへの羨望。

見知られて岩屋に足も留られず    泥土
<みしられて いわやにあしも とめられず>。山の岩屋で修行をしていたのだが、村人層での下刈作業の折に見つかってしまった。ここにはもうとどまって入られない。主人公は聖人で、この岩屋の俗化を恐れたのであろう。

 それ世は泪雨としぐれと      里東
<それよはなみだ あめとしぐれと>。とかく浮世は涙と雨と時雨というように、悲しみに満ちている。前句の岩屋は、恋の逃避行の男女がひそかに隠れていた隠れ家だったのである。

雪舟に乗越の遊女の寒さうに     野徑
<そりにのる こしのゆうじょの さむそうに>。越後の遊女(市振の遊女かもしれない)は、お客のところへ雪の中をそりに乗って出かけていく。その寒そうな姿。まったくこの世は「涙と雨と時雨」だ。

 壹歩につなぐ丁百の錢       乙州
<いちぶにつなぐ ちょうひゃくのぜに>。「一歩」は銭一貫文。4貫文で一両。「丁百」とは、一文銭百枚をもって百文とすること。地域によって貨幣価値に相違があったので、95枚で百文と勘定する発展地域もあったのであるが、東北や北陸など江戸から遠い地域では100枚をもって百文とした。これが「丁百」。この銭勘定は前句の遊女のもの。

月花に庄屋をよつて高ぶらせ     珍碩
<つきはなに しょうやをよって たかぶらせ>。金持ちの庄屋を月だの花だのといっておだてて金を使わせようという魂胆。

 煮しめの塩のからき早蕨      怒誰
<にしめのしおの からきさわらび>。花見に庄屋を誘って大いに出費させる。その花見料理は塩っ辛い煮しめのワラビ。あまり酒の肴に向くとも思えないが。。。

くる春に付ても都わすられず     里東
<くるはるに つけてもみやこ わすられず>。 春が来るたびに都にあった昔のことが思い出されて忘れられない。前句を、島流しに遭った罪人か、都落ちした貴人と見て付けた。

 半氣違の坊主泣出す        珍碩
<はんきちがいの ぼうずなきだす>。田舎暮らしに堪えられずに、ついに気が変になった僧侶が泣き出す始末の春の日。

のみに行居酒の荒の一□( 「さわぎ」操の篇を馬に) 乙州
<のみにゆく いざけのあれの ひとさわぎ>。いつものように居酒屋に行って飲んでくだ巻いて一騒乱を起こしている。前句の僧侶の騒ぎの場所を説明。

 古きばくちののこる鎌倉      野徑
<ふるきばくちの のこるかまくら>。鎌倉はこの時代すでに古都だった。そこには鎌倉時代に流行った博打が綿々と残っていて、前句の騒ぎも博打場でもある居酒屋での博打打たちの騒動であった。

時々は百姓までも烏帽子にて     怒誰
<ときどきは ひゃくしょうまでも えぼしにて>。鎌倉の博打では、時として百姓達までが烏帽子姿で博打にやって来る。というのは、鎌倉のお祭りの行列か何かに駆り出されて、その足で不良な百姓が賭場に行ったのである。

 配所を見廻ふ供御の蛤       泥土
<はいしょをみまう くごのはまぐり>。「供御」は貴人に上納する品のこと。ここでは配所に流されている貴人に献納する食べ物でそれがハマグリだというのである。それを持参するのが時として百姓達であったりして、その時には烏帽子を付けて配所に向かうというのだが。

たそがれは船幽霊の泣やらん     珍碩
<たそがれは ふなゆうれいの なくやらん>。配所の有る小島の海。たそがれ時ともなると、その昔この地で流罪のまま死んで行った罪人の怨霊が船幽霊となって、生ぬるい風に誘われて出てくる。その怨みに満ちた泣き声が聞こえてくる。ここは、壇ノ浦か喜界ヶ島か?

 連も力も皆座頭なり        里東
<つれもちからも みなざとうなり>。ここでは話し相手も、力と頼む人もみな座頭(盲人)だ。

から風の大岡寺繩手吹透し      野徑
<からかぜの たいこじなわて ふきとおし>。「繩手」とは「畷」で吹きさっらしの一本道のこと。特に冬に季節風にさらされて通行の難所となるところから命名されることとなった場所である。ここ「大岡寺繩手=大岡寺畷」は、鈴鹿川北堤に約一里の旧東海道一長い直道であった。

 蟲のこはるに用叶へたき      乙州
<むしのこはるに ようかなえたき>。こんな何にも遮るものの無い、寒風引きさらしの場所で、「虫のこはる=下腹が張ってきて」便意を催したらどうしよう???

糊剛き夜着にちいさき御座敷て    泥土
<のりこわき よぎにちいさき ござしきて>。そういう時には、糊の硬い夜着を着て、ござを敷いて寝るとよい。

 夕辺の月に菜食嗅出す       怒誰
<ゆうべのつきに なめしかぎだす>。前句で粗末ななりで寝ているのは中間小者の使用人。彼らは夜に腹がへって眠られない。そこで月明かりの部屋の中をうろついて菜飯の残りを探し出して空腹を満たす。

看經の嗽にまぎるゝ咳氣聲      里東
<かんきんの せきにまぎるる がいきごえ>。「看経<かんきん>」とは読経のこと。住職はついに風邪を引いて喉を痛めたので、読経の声が咳混じり。前句を、寺の情景と見た。 

 四十は老のうつくしき際      珍碩
<しじゅうはおいの うつくしききわ>。四十歳は四十雀というくらいで、老いの始まり。人生の最も美しい季節なのだということ。

髪くせに枕の跡を寐直して      乙州
<かみっぐせに まくらのあとを ねなおして>。寝ていて髪に寝癖がつくのは良くない。右左と寝返りながら枕を使うことで、寝癖を解消できる。中老の美しさを保つ一手段。

 醉を細めにあけて吹るゝ      野徑
<よいをほそめに あけてくかるる>。お酒の酔いを醒まそうと、障子を細めに開けて外気を入れてみる。前句の寝床でのもう一つの動作を加えた。

杉村の花は若葉に雨氣づき      怒誰
<すぎむらの はなはわかばに あまけづき>。杉林の中にぽつんと一本桜の木。それが季節遅れに咲いている。まわりの若葉は、忍び寄る雨季の予感に活気付いている。

 田の片隅に苗のとりさし      泥土
<たなおかたすみに なえのとりさし>。こうなればもはや田植えの季節。苗が少し余ったのであろう。田の隅に残った苗が插してある。きれいに終えた。

   野徑  六

   里東  六

   泥土  六

   乙州  六

   怒誰  六

   珍碩  五

   筆   一


   

                 乙州

亀の甲烹らゝ時は鳴もせず
<かめのこう にらるるときは なきもせず>。この亀はスッポンのこと。「川越しの遠の田中の夕闇に何ぞと聞けば亀ぞ鳴くなる」(『類船集』)という歌があるくらいで、この時代スッポンは声を出して鳴いたらしい。そのスッポンも鍋で煮られる時には声も出さない。

 唯牛糞に風のふく音        珍碩
<ただぎゅうふんに かぜのふくおと>。近くに牛糞の堆肥の小山があるのだろう。その傍でスッポンを煮ているのだが、スッポンは泣かず、寒風がその小山に当たる音だけがする。

百姓の木綿仕まへば冬のきて     里東
<ひゃくしょうの もめんしまえば ふゆのきて>。この木綿は、綿の木のこと。一年草で初秋には綿を収穫する。その枯れた茎を抜き取って、その跡に麦の種子を蒔く。これが終われば冬になる。百姓の農事暦はこれで終わるのである。

 小哥そろゆるからうすの縄     探志
<こうたそろゆる からうすのなわ>。「からうす=碓」とは、うすを地中に埋め、柄の端を足で踏み、杵<きね>を上下させて穀類を搗<つ>く仕掛けのもの。踏み臼(『大辞林』)とある。力綱が天井から下がっているのであろう。労働歌で同調しながら力を出し合う。一年の農事が終わった農民は出稼ぎに出て碓を搗くのである。

獨寐て奥の間ひろき旅の月      昌房
<ひとりねて おくのまひろき たびのつき>。からうすを回しているのは京伏見あたりの造り酒屋。その奥座敷には賓客が泊まっている。彼の耳には酒蔵でやっている碓の音が聞こえてくる。広い座敷には冬の月の光が漏れている。

 蟷螂落てきゆる行燈        正秀
<とうろうおちて きゆるあんどん>。「蟷螂<とうろう>」はカマキリ。行灯の油皿の中の落っこちて灯を消してしまった。広い座敷は月明かりだけになった。

秋萩の御前にちかき坊主衆      及肩
<あきはぎの ごぜんにちかき ぼうずしゅう>。「御前」は藩主などの身分のもの。彼に仕える奥坊主を従えて先程から月夜の萩を楽しんでいた。そのとき行灯が突如消えたのである。月夜だから差し支えは無かろう。

 風呂の加減のしずか成けり     野經
<ふろのかげんの しずかなりけり>。「風呂」は、「風炉」で、茶の湯の席上で、釜<かま>をかけて湯をわかす炉。唐銅<からかね>製・鉄製・土製・木製などがあり、夏を中心に用いる(『大辞林』)。大名家の茶室の中。先程から風炉の上の茶釜の湯気が安定した音を立てて一層閑な時間が過ぎていく。

鶯の寒き聲にて鳴出し        二嘯
<うぐいすの さむきこえにて なきいだし>。前句の茶の湯は、初釜の情景に変えて。茶室の外では鶯の初音が聞こえてくる。のどかな初春の情景。

 雪のやうなるかますごの塵     乙州
<ゆきのようなる かますごのちり>。「かますご」は、関西における「イカナゴ」の呼び名で、カマスの子供と間違ったと言われている。イカナゴは立春の頃に瀬戸内海にやってくる。雪のように白い春の景物。

初花に雛の巻樽居ならべ       珍碩
<はつはなに ひなのまきだる すえならべ>。「巻樽<まきだる>」は進物用の酒樽。女児の初節句を祝う飾りが豪華の飾られて春は本番。

 心のそこに恋ぞありける      里東
<こころのそこに こいぞありける>。こういう春の行事が始まると、何となく恋心に似た気持ちが芽生えてくるものだ。

御簾の香に吹そこなひし笛の役    探志
<みすのかに ふきそこないし ふえのやく>。恋心があざとなって、御簾の中の香りが香ってくると、手元がくるって笛の音程を間違った。御簾の中の女性と合奏しているのだが、恋心が邪魔してうまく協奏できなかった。「源氏物語・若菜の巻」から採った。

 寐ごとに起て聞ば鳥啼       昌房
<ねごとにおきて きけばとりなく>。笛をとちったと思った瞬間ハッとして目が覚めた。前句の話は、夢だったのである。目覚めてみると一番鳥が啼いている。

錢入の巾着下て月に行        正秀
<ぜにいれの きんちゃくさげて つきにゆき>。一番鳥に目が覚めて、起きて財布を身につけて未だ有明の月の残る中を商売に出かける。商人の姿。

 まだ上京も見ゆるやゝさむ     及肩
<まだかみぎょうも みゆるややさむ>。前句は早朝だが、ここは夕方に。今下京を商っているのだが、まだここは上京からはすぐそこ。それなのに秋の夕陽はつるべ落とし、もう夕方となってしまった。大急ぎで行商を済まさないと 寒くなる夕方の景。

蓋に盛鳥羽の町屋の今年米      野經
<かさにもる とばのまちやの ことしまい>。 「蓋」はお碗などのふた。京都の鳥羽の町屋の米屋ではこの秋の新米を計り売りするのにお碗の蓋などで一杯二杯と計量して売っていたのであろう。

 雀を荷う篭のぢヾめき       二嘯
<すずめをになう かごのじじめき>。「ぢぢめく=じじめく」は、やかましく声や音を立てる。騒々しくすること(『大辞林』)。雀を大量に捕まえて、これを売りに行く。そのかごの中のうるさいこと。前句の「鳥羽」に触発されて、街道筋の景として「雀」を付けた。この雀は焼き鳥になるか、鷹の餌になるか。

うす曇る日はどんみりと霜おれて   乙州
<うすぐもる ひはどんみりと しもおれて>。「霜おれ」は、寒い日だが空が曇って放射冷却が無かったために霜が降りないような日のこと。雀を捕まえるシーズンに特有な天候を表現したもの。

 鉢いひならふ声の出かぬる     珍碩
<はちいいならう こえのでかぬる>。ドンミリと曇った朝、初めて托鉢に出た新米僧侶。読経の声がうまく出せないので托鉢が受けられない。

染て憂木綿袷のねずみ色       里東
<そめてうき もめんあわせの ねずみいろ>。ねずみ色に染めた木綿の衣に着替えて今日から仏門生活。昨日までの華やかな生活からのなんと暗鬱な展開。この主人公は尼であろう。

 撰あまされて寒きあけぼの     探志
<えりあまされて さむきあけぼの>。仲間はずれにされて一人居残り。なんとも寂しい寒い朝。仲間はみなどこへ出かけたのか。

暗がりに薬鑵の下をもやし付     昌房
<くらがりに やかんのしたを もやしつけ>。みなが出かける寒い朝。自分は「選び余されて」、人より早く起きて竈に火をつけ、湯を沸かす。朝食の準備をさせられる。

 轉馬を呼る我まわり口       正秀
<てんまをよばる わがまわりぐち>。「転馬」は「伝馬」で、主要街道筋では駅間に馬を用意しておいて、一区間ずつレンタルしながらリレーしていく仕組み。早起きをした男は、今日が伝馬の差配をする当番の日だった。

いきりたる鑓一筋に挟箱       及肩
<いきりたる やりひとすじに はさみばこ>。伝馬を使って旅する侍一人。肩をいからせながら宿場を出て行った。槍持ち一人にはさみ箱持ち一人を従えて。意気軒昂の下級武士の姿。

 水汲かゆる鯉棚の秋        野經
<みずくみかゆる こいだなのあき>。前句の情景のある街道筋の魚屋の軒先では、鯉の生簀の水を取り換えようと大騒ぎをしている。夏の間に肥えて勢いの良い秋の鯉が跳ね回っている。前句の侍の威勢を鯉の勢いに付けた。

さはさはと切籠の紙手に風吹て    二嘯
<さわさわと きりこのしでに かぜふきて>。「切籠の紙手」は、枠を切り子の形に組んで、四方の角に造花や紙・帛<はく>などを細長く切ったものを飾りつけた灯籠。盂蘭盆会<うらぼんえ>などに用いる(『大辞林』)。これにさわさわと秋の風が吹いている。今日は盂蘭盆会。

 奉加の序にもほのか成月      乙州
<ほうがのじょにも ほのかなるつき>。近頃回ってきた寺院建立の奉加帳の序文に秋の月のことが書いてあったが、あの月がいま出ている。今年は月明かりの盂蘭盆となった。

喰物に味のつくこそ嬉しけれ     珍碩
<くいものに あじのつくこそ うれしけれ>。しばらく病のためにふせっていたこの家の主人。病床で奉加帳を見ていたが、秋風と共に食欲が出てきて食い物の味覚が戻ってきた。うれしくなって奉加帳にはずもうと思っているのであろう。

 煤掃うちは次に居替る       里東
<すすはくういちは つぎにいがわる>。季節は年末に転じて。前句の病人の居る病間を、年末の大掃除を家人がしている間別室に移動している。食欲も戻ってきたことだから、新年には起きられるであろう。

目をぬらす禿のうそにとりあ けて   探志
<めをぬらす かぶろのうそに とりあけて>。「禿<かぶろ>」は髪の無いことだが、転じて遊郭の高級遊女に付けた初潮前の少女。この女の子が嘘泣きをして目に水を付けて泣いたまねをしたのであろう、おかげで煤掃きを手伝わないで隣室に待機させておいた。

 こひにはかたき最上侍       昌房
<こいにはかたき もがみざむらい>。「間夫はつとめのうさばらし」と、手練手管の華街の女の恋の誘いにも、田舎侍は堅物で簡単には乗ってこない。「最上侍」は、厳密には山形領の最上=新庄藩の侍だが、地方出身のくそまじめな侍の代名詞として使ったのであろう。

手みじかに手拭ねぢて腰にさげ    正秀
<てみじかに てぬぐいねじて こしにさげ>。くそまじめな田舎侍は、身なりにも頓着しないので、手拭をねじって腰にぶら下げて手短に帰り支度だ。

 縄を集る寺の上茨         及肩
<なわをあつむる てらのうわぶき>。さっさと腰に手拭をぶら下げて、寺の棟の葺き替え作業に寄進の縄を集める屋根葺き職人。登場人物の交換。

花の比昼の日待に節ご着て      野經
<はなのころ ひるのひまちに せちごきて>。「節ご」は「節御<せちご>」で、特別な日に着る着物の意。「日待」は庚申祭を日中にすること。花見をかねて親しい者達が一堂に集まって、飲み食いしながら一日を過ごした。特に今日は寺の屋根葺きの完成を祝ったのであろう。

 さゝらに狂ふ獅子の春風      二嘯
<ささらにくるう ししのはるかぜ>。「ささら」は、田植え囃子<ばやし>や風流<ふりゆう>系の獅子舞などで使用する楽器。先を細く割ったささら竹と、のこぎりの歯のような刻みをつけた棒のささら子とをこすりあわせて音を出す。すりざさら(『大辞林』)めでたい獅子舞で実にうまく巻き収めた挙句。

   乙州 四  正秀 仝(四)

   珍碩 仝  及肩 仝

   里東 四  野經 仝

   探志 仝  二嘯 仝

   昌房 仝


   田野

                           正秀

畦道や苗代時の角大師
<あぜみちや なわしろどきの つのだいし>。「角大師」は、天台座主の元三<がんざん >大師良源<りようげん>の通称。二本の角のある姿で描かれることからいう。また、その画像。(2)二本の角のある鬼形の元三大師像を絵や刷り物とした魔よけの護符(『大字林』) で、これを正月は門口に張って魔除けとした。ここでは(2)の意。この護符を田んぼの苗代の畦道に立てることで、烏や獣の被害から苗代を護り併せて豊作を祈念したのである。

 明れば霞む野鼠の顔        珍碩
<あくればかすむ のねずみのかお>。角大師の画像の張られた翌朝野ネズミ共はこれを発見して顔色を失ったのである。

觜ぶとのわやくに鳴し春の空      仝
<はしぶとの わやくになきし はるのそら>。「わやく」は「むやみに」の意。「觜<はしぶと>」は嘴太カラスの略。野ネズミにとっては天敵である。カラスが朝から大声で啼いて威嚇するので、野ネズミはここでも顔色を失ったであろう。

 かまゑおかしき門口の文字      秀
<かまえおかしき かどぐちのもじ>。家の門に扁額か何かが掲げてあって、それがなかなか風変わりなものだ、というのだが、珍碩亭のことでもあるか??

月影に利休の家を鼻に懸        仝
<つきかげに りきゅうのいえを はなにかけ>。利休好みの家を作ったといって自慢していた人がいる。これも珍碩を野次ったらしいが、不明。「
堅田十六夜の弁」参照。

 度々芋をもらはるゝなり       碵
<たびたびいもを もらわるるなり>。家自慢を聞かせる代償として芋をしばしば食わせているのだから文句はあるまい。珍碩の家自慢を冷笑した正秀に逆襲か?

虫は皆つゞれつゞれと鳴やらむ     秀
<むしはみな つづれつづれと なくやらん>。秋の虫=特に前句の芋にかけて芋虫は、寒さの冬に向かうから着物の裾を「つづれ、綴れ」と啼いているのではないか。

 片足片足の木履たづぬる       碵
<かたしかたしの ぼくりたずねる>。「木履」は足駄のこと。大勢集まった秋の夜長の集会の後、人々が帰っていくと片足ばかりの足駄だらけになってしまった。「つづれつづれ」の反復の調子に「かたしかたし」で応じただけの無意味な付。

誓文を百もたてたる別路に       秀
<せいもんを ひゃくもたてたる わかれじに>。前句は女郎屋の履物置き場の景とみて。別れ際に守りもしない約束事を百も誓って男女は別れる。

 なみだぐみけり供の侍        碵
<なみだぐみけり とものさむらい>。女たちとの別れに臨んで、主人の誓文を聞いて供の侍は涙にくれている。王朝物語の雰囲気を感じ取っての付。

須广はまだ物不自由なる臺所      秀
<すまはまだ ものふじゆうなる だいどころ>。男が別れていく場所は須磨の浦。そこには何も無い。ただ「わぶ」だけだ。そんな不自由な生活の場所へ行くかと思うと、供侍は涙を禁じえぬ。行成か光源氏をイメージしての付句。

 狐の恐る弓かりにやる        碵
<きつねのおずる ゆみかりにやる>。須磨の浦にはきつねなどがいる。狐が怖がる弓を供侍に借りに行かせる。

月氷る師走の空の銀河         秀
<つきこおる しわすのそらの あまのがわ>。狐が出没する夜は、月も凍るような寒い冬の夜。銀河が冷たく光る夜。

 無理に居たる膳も進まず       碵
<むりにすえたる ぜんもすすまず>。寒い冬の夜を家に帰ってきた男、遅い夕飯の膳に無理矢理着いたものの心配事のためか食欲がわかない。

いらぬとて大脇指も打くれて      秀
<いらぬとて おおわきざしも うちくれて>。自分にはこんな大脇差はもはや不要と言って、人にくれてしまった。世捨てを覚悟した男の決心。

 獨ある子も矮鶏に替ける       碵
<ひとりあるこも ちゃぼにかえける>。一人っ子の男の子も奉公に出してしまって、さみしさに耐えかねたかチャボを一羽買ってきて、寂寥を慰めているという。

江戸酒を花咲度に恋しがり       秀
<えどざけを はなさくたびに こいしがり>。花の季節が来る度に、江戸に居た時分のことが思い出され、花見に飲んだ酒なども思い出されて恋しさが増す。

 あいの山弾春の入逢         仝
<あいのやまひく はるのいりあい>。春の夕間暮れ。さみしさに耐えかねて「あいの山」という歌を三味線で弾く。

雲雀啼里は厩糞かき散し        碵
<ひばりなく さとはまやごえ かきちらし>。「厩糞」は馬や牛の堆肥。ひばりの鳴く春の夕暮、山里では牛馬の糞尿の堆肥をかき混ぜて発酵を促している。

 火を吹て居る禅門の祖父       秀
<ひをふいている ぜんもんのじじ>。「禅門<ぜんもん>」とは、在家のまま仏門に入り剃髪している男子。禅定門<ぜんじようもん>)。⇔禅尼は女性の場合(『大辞林』)。禅門の爺さんが家人のために夕餉の準備に竈に火をつけて夕餉を作り始めている。春の山里は忙しい。

本堂はまだ荒壁のはしら組       碵
<ほんどうは まだあらかべの はしらぐみ>。本堂がまだ荒壁までしかできていない寺の普請中。ボランティアとして働いている前門の老人は、一心不乱に火をおこしている。

 羅綾の袂しぼり給ひぬ        秀
<らりょうのたもと しぼりたまいぬ>。「羅綾<らりょう>」は、うすぎぬとあやぎぬ。美しい衣服のこと (『大辞林』)。そんな美しい女性が涙で袂を濡らしている。愛する夫を失ったのである。その菩提寺を建立すべく、建設が始まったのだがまだ本堂の荒壁までしか出来上がっていない。

歯を痛人の姿を絵に書て        碵
<はをいたむ ひとのすがたを えにかきて>。前句の羅綾の美女は、歯が痛む人。その姿を絵にとどめようというのだが、歯痛の美女は絵になったのである。今に思えば、あまり良い趣味とはいえないが。

 薄雪たはむすゝき痩たり       秀
<うすゆきたわむ すすきやせたり>。その歯痛に痛む姿は、うっすらと雪を置いた痩せた枯れススキが、雪の重みに耐えかねてたわむ姿に似ている。

藤垣の窓に紙燭を挟をき        碵
<ふじがきの まどにしそくを はさみけり>。「藤垣」は連子窓(日本建築に用いられる窓の一。窓枠の内側に、断面が方形または菱形の棒状の材(連子子(れんじこ))をならべたもの(『大辞林』))の連子子に藤蔓を用いたもののこと。ここから紙燭(灯り)を取り付けて、ススキの枯葉に積もる夜の雪を楽しんだ。

 口上果ぬいにざまの時宣(宜)    秀
<こうじょうはてぬ いにざまのじぎ>。「いにざま」は「去に様」で客が辞去の際の行動様式のこと。前句では、何時までも長々と挨拶をして辞去していく客のために、藤垣に紙燭を挟んで明かりを灯したのである。

たふとげに小判かぞふる革袴      碵
<とうとげに こばんかぞふる かわばかま>。革袴は、武士階級の中でも上層部の着用したもの。謹厳に正座して金勘定をしている家老。その彼に対して帰っていく人の辞去の様が前句である。思うに客は、この家老の個人かまたはその藩のご用金を一時借用して今日返還に来て、借金の礼を述べて帰るところなのであろう。

 秋入初る肥後の隈本         秀
<あきいれそむる ひごのくまもと>。「隅本」は熊本。肥後の熊本は早場米地域ゆえに、初秋というのに米の収穫が始まった。前句の侍は、その年貢の収納をチェックしているのであろう。

幾日路も苔で月見る役者舩       碵
<いくかじも とまでつきみる やくしゃぶね>。海辺の浦々をまわって秋祭りの芝居興行をする旅芸人の一座。秋の名月を船の屋根の破れから眺めてすごしてきた。

 寸布子ひとつ夜寒也けり       秀
<すぬのこひとつ よさむなりけり>。「寸布子」は粗末な薄っぺらな綿入れの着物。船の上の役者達はそれしか着ていないので秋の夜寒は身にしみる。

沢山に禿め禿めと吃られて        碵
<たくさんに はげめはげめと しかられて>。こちらは大棚の丁稚。薄っぺらな綿入れ一枚でふるえているのだが、彼の頭には直径一寸ほどの円形脱毛がある。それがすでに心労のためなのだが。番頭は、この丁稚を「禿、禿」と言ってこき使うのである。だから、労働基準法が必要。いまもまだ過労死や過労自殺が絶えないこの「美しい国」を見よ。

 呼ありけども猫は帰らず       秀
<よびありけども ねこはかえらず>。禿猫といって虐められた猫はついに家出を決行した。なんど探し回っても見つからない。

子規御小人町の雨あがり        碵
<ほととぎす おこびとまちの あめあがり>。「御小人町」は武家の雑用をもっぱらとする小間使い達の職人町。その雨上がりにホトトギスが鋭い声を上げて通っていった。家出した猫もこの町の中に隠れた模様。

 やしほの楓木の芽萌立        秀
<やしほのかえで きのめもえたつ>。その季節は、かえでの芽が萌え立つ春。

散花に雪踏挽づる音ありて       碵
<ちるはなに せっだひきずる おとありて>。散る桜の花を雪に見立てて「せっだ」を引きずる音を立てる。花見の余興であろう。春爛漫。

 北野ゝ馬場にもゆるかげろふ     秀
<きたののばばに もゆるかげろう>。京都北野の馬場にも陽炎が立って春がきた。のどかな一日の始まりだ。

   正秀 十九

   珍碩 十七

        寺町二條上ル町

         井筒屋庄兵衛板



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城下:この城下は、膳所藩の城下。現在の滋賀県大津市。