芭蕉db

此筋・千川宛書簡

(元禄7年9月17日 芭蕉51歳)

書簡集年表Who'sWho/basho


一、続猿蓑下清書に懸候*。殊之外、其角・嵐雪・桃隣、家々集をかヽへて最中とんぢゃくの折節、少づヽあや出来そ(さ)うにて、物むつかしく候故、愚意を加へ候事は、ふかくかくし申候*。尤かまはぬ方能候へ共、前猿集のけがれに成候半をいとひ、しのびに手を入申候*。此段左様に御意得可成候*。発句も、越前家中無是非人々の句あまた加入、集面先前集にをとり申候*。愚句廿句計入申候*。貴様方五句づヽ入申候*。其外は一句、二三句づヽ入申候。御書越候方、皆々は入不申候*。愚老存知奇(寄)御座候故、むさと句はちらし不申候*。随分御句数御考可成候*
    中七日                        はせを

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 大坂から大垣の門人此筋・千川に宛てたと推測される書簡。宛先や年月や前半部を欠く。『続猿蓑』編纂の意図と苦労と此筋・千川兄弟の句集採録について報告している。ところで、『続猿蓑』は芭蕉生前の最後の大事業であった。沾圃の手に任せていると『猿蓑』の好評に傷がつくと考えた芭蕉は、気の置けない門弟支考を使って全面的にその編纂に力を入れることになった。これもまた芭蕉の死を早めた原因かもしれない。
 本書簡中、何やら芭蕉自身で撰集を編む計画があったと思わせる記述がある。しかし、それは成らず、『続猿蓑』自体も、支考の再考を経て、死後4年した元禄11年ようやく京都の書肆井筒屋庄兵衛から出版されたのである。