芭蕉db

曲水宛書簡

(元禄4年11月13日 芭蕉48歳)

書簡集年表Who'sWho/basho


 都出て神も旅寝の日数哉

行脚乞士之癖として*、常々の御厚恩は胸に有ながら、御暇乞もさだかならず*、短き手紙一つに而埒明候も*、悟中間の仕方のやうにうるさく覚申候へ共*、且名残リ残らんも一風流たるべきや*。松茸・御所柿は心のまゝに喰ちらし、今は念の残るものもなしと*、暮秋廿八日より三十二日めに、武江深川に至り候*。盤子に被遣候御返翰*は、熱田は人々取込候へば、封のまゝにて岡崎の駅まで持参候而、窓の破れより風吹入、戸の透間より月かゝれる、いを(魚)の油のなまぐ(さ)きよごれ行灯の前に而御文先開く。泪紙面にそゝぐ。珍碩文に三とせの厚情不(浅)と書たる*、誠三とせ心をとゞめ候はこれたれが情ぞや。何とぞ今来年江戸にあそび候はゞ、又又貴境と心指候間*、偏に膳所之旧里のごとくに存なし候*
御堅固に御勤、竹助殿煩無御座様にと奉存候*
珍碩目保養無油断様に御心そへらるべく候*。いまだ取紛候故、いづ方へも書状遣し不申候。其角に遭申、先御噂申出し候*
霜月十三日                            はせを
曲水様
尚尚いまだ居所不定候*

 江戸から膳所の菅沼曲水宛に書いた書簡。曲水からの返書に対する返書の形を取っている。1年夕半に及ぶ湖南を中心とした生活を終えて帰ってきた江戸からのもの。この頃、芭蕉はしばらくの間住む家が無く仮住まいを余儀なくされた。「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」と詠んだ第2次芭蕉庵は人手に渡っていたため、杉風らが奔走して買い戻そうとしたが果たせなかったという。