芭蕉DB

松尾半左衛門宛遺書

(元禄7年10月10日)

書簡集年表Who'sWho/basho


御先に立候段、残念可思召*。如何様共又右衛門*便に被成、御年被寄、御心静に御臨終可成候*。至爰申上る事無御座候。市兵へ*・治右衛門殿*・意專老*を初、不(残)御心得奉頼候。中にも十左衛門殿*・半左殿*、右之通*
ばゞさま*・およし*力落シ可
申候。以上
十月                    桃青(書判)
  
松尾半左衛門様
新蔵は殊に骨被折、忝候*

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 たった一人の兄松尾半左衛門に宛てた芭蕉の遺書。元禄7年10月10日夜これを認めた。芭蕉は、この年盂蘭盆を中心に郷里伊賀の無名庵に滞在し、9月8日そこを発って奈良を経由し大坂に入った。ここで体調を崩し、9月20日頃まで発熱や悪寒に悩まされた。一旦小康を得たが、9月29日、再度下痢を発し、10月5日には病床を大坂南御堂前花屋仁左衛門貸し座敷に移した。急を知った各地の門人が大坂に参集し、10月8日には之道らによって住吉神社で祈祷が催されたりもした。祈祷によってはかばかしい成果を上げる間もなく、死期を悟った芭蕉は、この遺書の他支考代筆の遺書3通を認める。
 芭蕉危篤の報は全国各地に発せられたにもかかわらず、比較的近い距離にいた伊賀の門人は一人も死に立ち会っていない。これは、実家の家族を悲しませたくないと考えた芭蕉が伊賀にだけは報せないように命じたためである。芭蕉は漂泊の詩人であったが、郷里伊賀には前後6回も帰っていて、その故郷思いは察するにあまりあるものがあった。
 この2日後の10月12日、午後4時ごろ死去。我が国最高の歌人芭蕉の享年はこの時51歳であった。

笈日記参照