芭蕉db

知足宛書簡

(貞亨4年11月24日 芭蕉44歳)

書簡集年表Who'sWho/basho


 為御見舞三良(郎?)左衛門殿被遣、誠辱奉存候*。今日は若御出可成かと御亭主共に相待居申候處*、御残多義(儀?)に御座候*。先以此度は緩々滞留*、さまざま御懇情御馳走、御礼難申尽候。はいかい急に風俗改り候様にと心せかれ*、御耳にさはるべき事のみ、御免被成可下候*。され共風俗そろそろ改り候はば、猶露命しばらくの形見共思召可下候*。なごやよりも日々に便被致候間、明日荷兮*迄参可申候はんと存候。持病心気ざし候処、又咳気いたし*、薬給(食?)申候。なごやにても養生可成事に御座候間、明日比なごやへと存候。
一、先日笠寺まで御連中御送被成、御厚志候こと、可然御礼御意得奉頼候*。如意寺様*猶又よろしくたのみ奉存候。追付発足、山中より以書状具可申上*。二三日此かた両吟致*、大かた出かし候。出来候はば被懸御目候様に、草々以上。
     霜月廿四日
  寂照居士                     芭蕉翁
     御報
 尚々今日は御入来可成と相待候処、近比近比御残多奉存候*。かへすがへす此度万事御懇意忝難尽候*

 ようやく実行された『笈の小文』の旅。その途次名古屋熱田の林桐葉亭に滞在中の芭蕉が知足に宛てた書簡である。芭蕉は、この折、名古屋鳴海の知足亭に11月4日から9日まで、またその後21日までの間、前後10日間滞在した。その滞在期間中、芭蕉は新俳諧を門弟達に教えるため俳席では相当厳しく叱咤激励したようで、この書簡では長上の知足に対しても厳しい教示を与えたことを詫びている。
 芭蕉にとっては、『笈の小文』の頃が精神的には最も充実していた時期であった。それだけにその教えも気力のこもったものであったのだろう。