芭蕉db
雲とへだつ友かや雁の生き別れ
(冬扇一路)
(くもとへだつ ともかやかりの いきわかれ)
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寛文12(1672)年、29歳。伊賀上野を後にしてこの年から江戸に定住。この年は、
3作
現存する。『芭蕉翁全伝』
(竹人著)
には、「かくて蝉吟子の早世の後、寛文一二子の春29歳仕官辞して甚七と改め」とあってこの句が引用されている。 このいわゆる『竹人全伝』では、芭蕉は江戸下向まで藤堂新七郎家に奉公していたことになっていて、この6年前蝉吟死去直後京に出て、季吟の下で古典を学び、かつ修行層として禅寺にあったとする定説とは違背する。
雲とへだつ友かや雁の生き別れ
遠い雲を隔てて私は江戸に出て行きます。これが旅立つ雁の生き別れです。「雁」と「仮」とを掛けたか?
芭蕉が江戸に下った際に、どのような手づるが有ってのことだったのかは不明である。広く流布している説では、日本橋
本船町
名主小澤太郎兵衛得入(俳号卜尺 <ぼくせき>)方に草鞋を脱いだというのがある。 また、杉山杉風宅という説もある。前者については、
蓑笠庵梨一が『奥細道菅菰抄』 の中で次のように書き記している。
<梨一かつて東都にあそぶ間、本船町のうち、八軒町といふ処の長卜尺と云俳士に交る事あり。彼者語りけるは、我父も、卜尺を俳名として、其比は世にしる人もありき。一とせ都へのぼりし時に、芭蕉翁に出会て東武へ伴ひ下り、しばしがほどのたつきにと、縁を求て水方の官吏とせしに、風人の習ひ、俗事にうとく、其任に勝へざる故に、やがて職をすてて、深川といふ所に隠れ、俳諧をもて世の業となし申されしと、父が物語を聞ぬと。(此時
延宝六年
にて、年二十三と云)あるひは一説に本船町の長序令といふ者にさそはれて下り給ふとも云。卜尺序令、ともに古き俳集にみえたり。或は両名同人か >
上記には一部、年次や年齢に間違いがあるようだが、初代卜尺は確かに実在していて、季吟門下の俳人または古典文学愛好家で、いくつかの俳諧作品が残っている。軽重はともかく、同門のよしみで、江戸下向の希望があるなら面倒を見るぐらいの話が両人の間であったか、師の季吟が仲立ちをしたかして、道筋が作られたということはありうるのではないか?この卜尺は当時前期資本主義の黎明期、その中心にあった江戸日本橋の名主というから、相当に多忙であて、それゆえ芭蕉のように読み書き算術の出来る人物を「書記」役として使う必要性はきわめて高かったであろうから、「渡りに舟」だったのかもしれない。
この日本橋定住は、俳諧師希望の芭蕉にとってもきわめて好都合で、文学愛好家や新興成金の有閑人との人的ネットワーク構築に最高の条件を具備していたのである。
なお、江戸下向の草鞋を解いた場所として、杉山杉風説もあるが、杉風と芭蕉の接点が、江戸下向以前に見当たらないことから説得力が乏しい。
高山伝衛門麋塒
の子息高山繁扶著『真澄鏡』には;
俳諧の宗匠場蕉桃青は伊賀の国上野の士なり。松尾甚七郎と言ふ。江戸へ出、幽山の執筆たりしころ、撫でつけに成る時、「我黒髪なでつけにして頭巾かな」。其後学文顕学執行成りて、小田原町鯉屋市兵衛事杉風、其子小兵衛と入懇にて、此下屋敷深川にあり。是に住庵を結び、ばせをと号す。己父幻世懇にて、甲州郡内谷村にも度々参られ、三十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す。
とある。これは、後日深川隠棲後のことであって、江戸下向直後の話ではない。
江戸本船町付近(現日本橋一丁目三越本店付近)日本橋上から江戸橋方面をのぞむ