臨終
1694年10月12日


 元禄七年十月十二日申の刻(午後四時頃)、芭蕉は51年の生涯を大坂 南久太郎町御堂ノ前 (現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷にて終えた。
 門人支考の『追善日記』によれば、この日は、朝からよく晴れた小春日和であった。昼下がりの病室には、気温の高まりに元気づいたハエどもが多数集まってきた。看病の門弟達は、棒の先に鳥もちを塗って、これらを撃退しはじめた。段々蝿取りに夢中になって枕元が騒がしくなった。それに目覚めた芭蕉は、弟子達の、蝿取りにも個性のあることがおかしいと言って笑ったという。これが、芭蕉最後の弟子達とのやり取りであった 。
 枕頭に居た者、木節、其角、去来、丈草、支考、維然、乙州、正秀、之道。芭蕉の大坂来訪の原因を作った洒堂は何故かここに不在であった。
 


大坂久太郎町御堂ノ前花屋仁右衛門貸座敷に臥す芭蕉と看病の門人たち
「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)

 

  遺骸は遺言によって、膳所の義仲寺に運ばれ、そこに埋葬された。其角の『枯尾華』によれば;

 「十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく睡れるを期として、物打ちかけ、夜ひそかに長櫃に入れて、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去来乙州丈艸支考維然正秀木節・呑舟・寿貞が子次郎兵衛・ともに十人、苫もる雫、袖寒き旅ねこそあれとためしなき奇縁をつぶやき、坐禅・称名ひとりびとりに、年ごろ日比のたのもしき詞、むつまじき教へをかたみにして、俳諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名のみ慕へる昔語りを今さらにしつ。 此期にあはぬ門人の思いくばくぞや、と鳥にさめ鐘をかぞへて伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬禮、義信を盡し、京大坂大津膳所の連衆、被官從者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳來るもの三百余人也。淨衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてゝ着せまいらす。則、義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少引入たる所に、かたのごとく木曾塚の右にならべて、土かいおさめたり。をのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならん、とそのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせをを植て名のかたみとす。」

 

 13日、伏見に着き、ここからは陸路を使って膳所の義仲寺へ搬送して葬儀。京・大坂・大津・膳所から芭蕉を慕って集まった人の数300余人という。

 14日、義仲寺の直愚上人を導師として、木曽義仲の墓所木曽塚の右に埋葬し、そこに枯れた芭蕉を植えた。

 郷里伊賀の門人達は、芭蕉危篤の書状を持参した羅漢寺の僧侶が伊賀に帰るのが遅く、事態を知ったの は10月12日。すでに、芭蕉が旅立った後であった。土芳と半残の二人は大急ぎで大坂をたずねたが、すでに芭蕉の遺骸は膳所に運ばれた後であったという。

 なお、10月18日には、其角を筆頭に門人43人による百韻俳諧が 興行された。その中には、上記の門弟の他、曲水・許六・李由・卓袋・智月尼・土芳などの顔があった。これを仕切ったのが江戸の其角。その折の其角の発句は、

なきがらを笠に隠すや枯尾花

であった。


芭蕉の遺骸はその夜のうちに淀川を舟で伏見まで運ばれ、それより陸路で大津まで運ばれた
「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)


大津市義仲寺境内にある芭蕉の墓(牛久市森田武さん提供)