冬の日脚注(1/5)


笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまり
とまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわ
び人、我さへあはれにおぼえける。むかし
狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖お
もひ出て申侍る          芭蕉
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
次の発句の詞書である。笠は長旅に破れ、紙子<かみこ>も同様よれよれです。侘び尽くした私ですが自分でもあわれに思います。そういえばその昔、竹斎もこの国に遊んだと言うことを思い出しましたので、・・・
「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」

 たそやとばしるかさの山茶花   野水
木枯らしに飛び散る山茶花を旅笠にいっぱい着けて到着した人は一体誰でしょう。芭蕉の発句に見事に応えた野水の脇句。 

有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮
有明に水星が見える時期になったてきたのでこれを主水(「もんど」は 宮中の水を司る役目の官名)と洒落込んで、さあ酒の仕込を始めなくては・・・。

 かしらの露をふるふあかむま   重五
「あかむま」は赤馬で駄馬のこと。酒を仕込んでいる作業場の前では赤馬が頭についた露を振り払っている。

朝鮮のほそりすゝきのにほひなき  杜國
「赤馬」が露を振り払っているその向こうにはやせ細って匂いも無い朝鮮渡来のススキが風にゆれている。

 日のちりちりに野に米を苅    正平
「日のちりちり」は日が消えようとしている意味で夕暮をさす。その野原では夕暮まで稲を刈る人がいる。

わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水
しかも、私の家は鷺の巣もあるほどの田舎です。鷺は<さぎ>とよむ。白鷺かゴイサギかは分からない。

 髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉
ある事情で髪を切ったが、今はその髪の毛が元通りになるまでこの田舎に忍んでいます。なぜ忍んでいるかは不明だが、「しのぶ」には色恋の沙汰が無くては面白くない。主人公が不明、野水にそのような事情があったのかも不明。

いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五
「いつわり」と言えば「恋」しかない。それも道ならぬ恋=不倫であろう。恋をし、子供ももうけたが、道ならぬゆえに人手に渡した。張ってくる乳をしぼって捨てる女の悲しい性。

 きえぬそとばにすごすごとなく  荷兮
「そとば」は、卒塔婆のこと。その子供が死んでしまって、その墓の卒塔婆の墨のあともまだくっきりとある。その墓の前で女は「すごすご」と忍び泣いている。不倫の結果を子供の死で受けたのである。

影法のあかつきさむく火を燒て   芭蕉
<かげぼうの・・ひをたきて>と読む。「影法」は影法師。墓の前で泣いている人物の影が、夜明の寒さの中で焚き火の火の影となって揺らいでいる。想像力は絶頂に達してきた。

 あるじはひんにたえし虚家    杜國
「虚家」は<からいえ>と読む、人の住んでいない空家のこと。「ひん」は「貧」。焚き火が見えたのは墓ではなくて、空家であった。この家は持ち主が貧しさに耐えかねて一家逃散したものだ。そんな家の中で誰かが火を燃やしていてその影法師が破れ障子にうつっている。中に居るのは盗賊か幽霊か?

田中なるこまんが柳落るころ    荷兮
「こまんが柳」は伊勢山田にある浮州という場所にある柳の木。「こまん」という遊女が恋に身を焦がしてここに投身自殺したという。上の脇句の主人の没落はこの女との恋のためだったのかもしれない。

 霧にふね引人はちんばか     野水
「ちんば」は足に障害のある人のこと。その柳の木のある川の岸。霧の中を上流に向かって船を引いている人たちは前かがみになって歩いているが、これらの人は足に障害でもあるか?

たそがれを横にながむる月ほそし  杜國
「横に」は「横車を押す」「横目で見る」など斜にかまえた態度をとることを含意する。力の限り船を曳いている人たちを「ちんばか」などと横柄な態度で見ている。空には三日月がかかっている。

 となりさかしき町に下り居る   重五
「まちに下り居る」とは、上臈の世界に宮仕えしている人が、久しぶりに帰ってきたこと。前句の、労働者を「横に」眺めているひとこそこの人である。そして、その町は隣近所のかまびすしい薄汚い町でもある。

二の尼に近衛の花のさかりきく   野水
<にのあまにこのえのはなの…>と読む。上の脇句の宮仕えの男は、同じく「町におり」てきた二の尼に御所の桜の盛りは何時か尋ねる。二の尼とは官女の中の第二の人で天皇が崩御のときに仏門に入った。

 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   芭蕉
「鼻かむ」のは泣いていることをさす。実は御所は桜なんか全く無くて今や「むぐら(葎)」=雑草の生える場所と荒れ果てているのである。だから蝶は桜の花ではなくて雑草の中を飛んでいるのである。男は、聞いて悲しくなって鼻をかむのである。

のり物に簾透顔おぼろなる     重五
<のりものにすだれすくかお…>と読む。「蝶はむぐらに」とは、左遷されて島流しに合う高貴な人の乗った乗物の御簾を通して見える顔は、涙のためにおぼろにしか見えない。

 いまぞ恨の矢をはなつ声     荷兮
一転して御簾の中の人物は親の仇に変身。「親の仇、思い知ったか?ここで会ったが百年目!!」とばかりに恨みの矢を放つ。

ぬす人の記念の松の吹おれて    芭蕉
こうして倒れた天下の盗人も、もはや亡くなって、彼のゆかりの松 (源義経一行を襲って殺された大盗人熊坂長範の形見の物見の松など)も風に吹かれて枝も折れ…

 しばし宗祇の名を付し水     杜國
盗人ゆかりの松はこうして枯れていったが、時は過ぎても今も「宗祇の忘れ水」は残っている。 現在の郡上市八幡町本町に残る。

笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮
宗祇といえば、この降ってきた時雨に傘をとって濡れてみないわけには行かないよ。それが俳諧の風狂の心というものだ。

 冬がれわけてひとり唐苣     野水
風狂もよいが冬枯れののに分け入ってみたって、緑の葉をつけているのは「唐苣<とうちさ>」だけですよ。前句を冷やかしている。

しらじらと砕けしは人の骨か何   杜國
その野に白々と骨が散乱している。これは人骨ではないか。夏草が被っていたときには見えなかったが、この冬枯れにその姿を現したのだ。

 烏賊はゑびすの國のうらかた   重五
<いかはえびすのくにのうらかた>。「うらかた」は占いのこと。「えびすの国」は夷狄の国のことで、辺境(=野蛮)の国の意。中国では亀の甲を焼いて占いをするそうだが、夷狄の国ではイカを焼いて占いをするらしい。上の白骨に刺激されて占いの話に転化した。

あはれさの謎にもとけじ郭公    野水
そういう野蛮な国では、あわれさを謎に掛けてもその意を解することはないから、たとえ郭公を歌に詠んだとて解してはもらえまいよ。

 秋水一斗もりつくす夜ぞ     芭蕉
<しゅうすいいっともりつくすよぞ>。秋の冷たく澄んだ水を使った水時計の水が一斗も無くなるほどに長い時間、これぞ秋の長夜である。ここで芭蕉は、上の句の「謎」を掛けたらしい。ここでは主題を変える効果がある。

日東の李白が坊に月を見て     重五
<じっとうのりはくがぼうにつきをみて>。「日東」は日本のこと。「坊」は寺院の宿坊のこと。中国の李白にも比較される日本の詩人が、宿坊の月を眺めて詩を作っている。

 巾に木槿をはさむ琵琶打     荷兮
<きんにむくげをはさむびわうち>。「巾」は頭巾のこと。その月見の宴には、頭巾に木槿を挿した琵琶法師が琵琶を奏でている。むくげはすぐに散るはかない様を象徴している。

うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉
この詩人は昔、一頭の牛を愛していた。その牛も既に世に無く、その霊を慰めんと夕ぐれの草原に草を供えている。

 箕に鮗の魚をいたゞき      杜國
<みにこのしろのうおをいただき>。「鮗<このしろ>」はひかりものの魚、鮨だねなどに使われる。草だけではなく、箕にコノシロを入れてそれを恭しく奉げて。

わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮
<・・あけがたのほしはらむべく>。「孕む」は妊娠すること。コノシロを奉げているのは、明けがたの星に向かって丈夫な子が授かられますようにと祈るためであって、…

 けふはいもとのまゆかきにゆき  杜國
願いがかなって妊娠した。そこで実家の姉が妊婦となった妹の「眉掻き」に行くのである。「まゆかき」は、新妻が妊娠したときに眉を剃り落とす行事のこと。ちなみに結婚した女はお歯黒を施し、妊娠すると眉を削いだ。

綾ひとへ居湯に志賀の花漉て    杜國
<あやひとえ おりゆにしがの はなこして>。「居湯」は温泉などの湯を汲んできてつくった風呂のこと。しかもここでは、滋賀(志賀)の都から持ってきた湯で、かつ綾と山桜の花でこしてあってというのだから、余程この妹は身分の高い女なのであろう。

廊下は藤のかげつたふ也      重五
<ろうかはふじのかげつたうなり>。妹の寝所への廊下には藤の花房が垂れ下がっていて。想像は無限の果てまでつづくらしい。



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