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先師上洛の時、去來曰、洒堂ハ此句ヲ月の猿と申侍れど、予ハ客勝なんと申*。いかゞ侍るや。先師曰、猿とハ何事ぞ。汝此句をいかにおもひて作せるや。去來曰、明月に山野吟歩し侍るに、岩頭一人の騒客を見付たると申*。先師曰 、こゝにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん*。たゞ自稱の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入れけるとなん*。予が趣向ハ猶二三等もくだり侍りなん。先師の意を以て見れ バ、少狂者の感も有にや。退て考ふるに、自稱の句となし●●れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり*。誠に作者そのこゝろをしらざりけり。
去來曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をきゝていまだ書を見ず*。定て原稿半にて遷化ましましけり。此時予申けるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺ふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝過分の事をいへりと也*。
先師上洛の時、去來曰、洒堂ハ此句ヲ月の猿と申侍れど、予ハ客勝なんと申:<せんしじょうらくのとき、きょらいいわく、しゃどうはこのくをつきのさるともうしはべれど、よはきゃくまさりなんともうす>。下五の「月の客」について、洒堂は「月の猿」が良いと言っているが、自分としては「月の客」がいいと思うがどうか。
去來曰、明月に山野吟歩し侍るに、岩頭一人の騒客を見付たると申:名月を見ようと山中を歩いていたところ、岩山の天辺に座って月を眺めている世捨ての風狂人を見つけたと、去来は説明したのである。
先師曰 、こゝにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん:すると先師は、ここにも私という酔狂な一人がいますと、自分であることをなぜ思わないか。これは自分を詠んだ句だと言いなさい、と言われた。
此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入れけるとなん:これは芭蕉の発言。この句は私も良い句だと思うので、私の自選句集である『笈の小文』に入れようと思う。芭蕉自選句集と言われている幻の『笈の小文集』は未だ発見されていないので、この記事の真偽を確かめることはできていない。
自稱の句となし●●れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり:欠落部分は「て見」と入れてみればよい。師匠が言うように「月の客」を自分自身として読むと、酔狂人の雰囲気も感じながら、作句の時より10倍も高い感動を感ずることができる。俳句が鑑賞の文学だといわれる所以である。
笈の小文集は先師自撰の集也。名をきゝていまだ書を見ず:『笈の小文集』は芭蕉自選句集だが、名は聞いているものの未だ実物を見ていない。多分、原稿半ばにして芭蕉は死んでしまったのだろうと、去来は類推している。いわゆる「笈の小文」は荷兮が芭蕉の死後に編纂した句文集で、ここに言う『笈の小文』ではない。
汝過分の事をいへりと也:去来は芭蕉自選句集である『笈の小文集』に自分の句が多数採録されていると思って聞いたのであろう。とkろが、門人の作品は3句というのは稀なくらいだと、厳しいことを言ったのである。