S11
君が春蚊屋はもよぎに極まりぬ
先師語レ予曰 、句はおちつかざれば眞のほ句にあらず*。越人が句已に落付たりと見ゆれバ、又おもみ出來たり。此句蚊屋ハもよぎに極たるにてたれり。月影朝朗などゝ置て、蚊屋のほ句となすべし。其上にかはらぬ色を君が代に引かけて歳旦となし侍るゆへ、心おもく句きれいならず*。汝が句も已に落付處におゐてきづかはず。そこに尻をすゆべからずと也*。
君が春蚊屋はもよぎに極まりぬ :越人の歳旦句。この君は愛人。萌黄の蚊帳が色褪せないように君の愛も色褪せない、といった意味。男女の恋を、歳旦吟としたために、「君が代」のめでたさに併せてしまった。月影朝朗などとして夏の発句にしておけば問題なかったのにというのである。恋の歌は、越人の得意の分野。得意なだけに様々ひねくって重くなってしまったのが失敗のもとだという。
先師語レ予曰 、句はおちつかざれば眞のほ句にあらず :<せんしよにかたりていわく、くはおちつかざればまことのほっくにあらず>。発句は微動だにしない落ち着きが必要だと言う。
其上にかはらぬ色を君が代に引かけて歳旦となし侍るゆへ、心おもく句きれいならず:蚊帳は萌黄色に決まっている。そういうごく定型な言葉に加えて、しかも蚊帳の色の不変と永遠の御代という意味をかけて歳旦としたという落ち着きの悪さが「軽み」とは正反対で、句が重く美しくないと芭蕉はいうのである。
汝が句も已に落付處におゐてきづかはず。そこに尻をすゆべからずと也:去来も随分と落ち着いているが、そこに腰を落ち着けてしまうと、面白いことにはならないだろう。冒頭「句はおちつかざれば眞のほ句にあらず」と言っておきながら、ここでは落ち着いてしまってはダメだという。それは「重み」と「軽み」の違いであり、落ち着くことで「重み」を背負い込んだのでは意味がないと教えているのである。