芭蕉db
(那須八幡 元禄2年4月4日)
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る*。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠*など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍 遙して、犬追物の跡*を一見し、那須の篠原*をわけて、玉藻の前の古墳*をとふ。それより八幡宮*に詣。与市扇の的を射し時*、「別しては我国氏神正八まん*」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊しきりに覚えらる*。暮れば桃翠宅に帰る。
この日は、元禄2年4月4日である。浄法寺図書高勝を訪問し宿泊した。高勝はこの時29歳。蕉門の俳号は、芭蕉の桃青の一字をもらって「桃雪」。この日も快晴であった。
那須八幡神社本殿と・・・
「山も庭もうごき入るや夏座敷」の句碑と・・・
栃木県那須郡黒羽町蜂巣字篠原玉藻稲荷神社 写真提供:牛久市森田武さん
桃翠:<とうすい>。桃雪の弟。鹿子畑(当時岡氏)豊明。448石。桃雪とは年子で28歳であった。実は、「桃翠」ではなく「翠桃<すいとう>」が正しい。このように「細道」では、故意か杜撰か、固有名詞をずらしている例が他にも多数ある。なお、翠桃宅への道すがらとして読んだ句「秣負う人を枝折の夏野哉」がある。
那須の篠原:芭蕉の頭に、実朝の歌「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原<・・やなみつくろうこてのえにあられたばしるなすのしのはら>」がよぎったか。
玉藻の前の古墳:「玉藻の前」は美貌並びなき鳥羽院の寵妃。ある年の七夕の夜、満天の星空が突如曇り、一陣の風が吹いて宮殿の全ての灯りを消した。そして金色の光を放つ「玉藻の前」がそこに居た。安部の泰成というものに占わせたところ、玉藻は実は金毛九尾の狐の化身であることが分かり、調伏されて那須野に逃げた。しかし、狐退治に派遣された三浦介義明や上総の介に射殺されあえなく死んだ。この狐退治劇こそ「犬追物」である。その怨霊が殺生石となって、以後空を飛ぶ鳥や虫を殺しつづけていたのだが、旅の僧が成仏させて悪事を働かなくなったという。謡曲『殺生石』参照。殺生石は火山性の硫化ガスの噴出によるもので、芭蕉が訪ねたこの時代にもガスは毒を放っていたのである。黒磯駅に今でも「九尾弁当」が有るかどうか? 貧しかった学生時代、仙台と東京の行き帰りに、黒磯駅でこの弁当を食べるのが唯一の楽しみであった。
犬追物の跡:狐の化身である玉藻の前を捕らえた狩の跡といわれる場所。狐は犬に似ているところから、この玉藻逮捕劇のことを犬追物 <いぬおうもの>というのである。
八幡宮:那須八幡神社。応神天皇をまつる。 ただし、与一が祈願した神社は実はこれではなく、那須湯本にある「温泉大明神<ゆぜんだいみょうじん>」である。
与市、扇の的を射し時:与市<よいち>は那須与一。 源氏方の武将。彼はこの地の出身と言われている。1185年(元暦2)源平争乱の「屋島の合戦」で、平家方の小舟の扇の的に狙いを定めて、「南無八幡大菩薩。…願わくはあの扇の真中に射させてたばせたまへ」と祈ったという。『平家物語』にある 。
別しては我国氏神正八まん:<べっしてはわがくにうじがみしょうはちまん>とよむ。我国は、那須の国のこと。分けても、我が故郷の那須八幡大菩薩に願をかけるの意。
此神社にて侍と聞ば、感応殊しきりに覚えらる:<このじんじゃにてはべるときけば、かんのうことにしきりにおぼえらる>と読む。与市が唱えた祈りの言葉の「八幡神社」がここのことと聞けば、一層感動することだ、の意。
全文翻訳
黒羽藩の城代家老浄坊寺某の館を訪ねた。この突然の再会を予期していなかった館の主は大喜び。うれしくて毎日毎夜語り続けた。彼の弟の桃翠などは朝夕ここへ通いつめ、また自分の家にも招いてくれたりした。一族の方々にも招待されるなど日数を重ねていたある日、郊外を散策し、犬追物の跡を見た足で、実朝の歌「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上にあられたばしるなすのしのはら」で有名な那須の篠原を通って、玉藻の前の墓にお参りした。そこから那須八幡宮に参詣した。屋島の合戦で、あの扇の的を打ち落としたとき、那須与一は「南無八幡大菩薩、別して我が氏神正八幡」と祈ったと語り継がれているが、その正八幡こそこの神社だと聞けば、感激はひとしおである。一日が終わって桃翠宅に帰った。