芭蕉db

奥の細道

( 元禄2年4月1日)


 丗日*、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して*、かゝる桑門の乞食順礼*ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をと ヾめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者*也。剛毅木訥の仁*に近きたぐひ、気稟の清質*、尤尊ぶべし。


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表紙 年表


kaisetsu.gif (1185 バイト)

 4月1日。前夜からの雨が朝まで残り、午前中は小雨ながら降ったり止んだりの天気であった。今市の宿を出て、昼過ぎ日光に到着。ここでようやく雨が止んだ。
 一行は、浅草の清水寺から預ってきた寺の書物を、養源院という寺に届ける用事をたした。養源院では、二人に案内を付けて東照宮社務所へ案内してくれたようである。当日は参拝客で混雑していたため、二人は随分待たされたが社務所の案内で東照宮を参詣することができた。そして、この夜、本文のような佛五左衛門の旅篭に一宿したという次第である。
 なお、この旅では、芭蕉は事のほかに「乞食巡礼」を意識していた。それだけに佛五左衛門については 、実在の五左衛門に仮託して、彼の描く理想的な人物像を作り上げたのであろう。しかし、そのためには現実の宿の主人五左衛門から受けた好感が素材となっているのだろうから、全くの創作というわけでもないのだろう。


旧例幣使街道の杉並木


日光上鉢石町佛五左衛門の旧居跡の碑

 「佛五左衛門」の末裔「高野(コウノ)」さんは、まさに、仏の子孫を名のるだけあって実直な方でした。最近は、芭蕉ブームで、高野さんの庭にある芭蕉の句碑を大勢の人が見に来るようです。
 当日も、芭蕉ゆかりの場所を訪ねる「ウォーキングラリー」の団体が、300人も押しかける有様で、アリの行列のように、一人当たり1-2秒句碑を見て、黙って立ち去るのには驚きましたが。
 私のように、一人で訪ねた者には、高野さんもじっくり話が出来るのか、呼び止められました。
 高野さんの話によりますと、「佛五左衛門」を記述した資料は、何も残っていない。過去帳に載っているのではと、大分調査をしたが、やっぱり無かった。しかし、宇都宮大學の方が来て、佛五左衛門跡は高野さん以外は考えられないと言った。また、高野家は、旧本陣で、戦前までは金谷ホテルの敷地も含め、辺り一帯の広大な土地を所有していた。
日光連山の一つである「大真名子、子真名子」を開いた家系でもある。今でも「大真名子、子真名子の講元」になっており、屋敷内にはそれに関する資料や小さな社が有る。しかし、当家では、「大真名子、子真名子」に登ったのは、今では高野さんだけだそうです。
 私は2年前に「大真名子、子真名子」に登ったと話したら、すっかり意気投合し、日光連山や日本百名山の話で盛り上がりました。でも、今では大真名子山頂に「バカだかい、不恰好なアンテナ」が設置されていることは、さすがに言い出せなかった。高野さんも、私と同じ心筋梗塞を患い、歩行が不自由であり、「大真名子、子真名子」の話になると、遠くを見る目になっていました。
 次の写真を撮りにお暇をしようとしたら、「もう、帰っちゃうのか」と名残惜しそうでした。また、いずれ会う日まで。 (文と写真提供:牛久市森田武さん。2002年5月15日撮影)