(日光 元禄2年4月1日)
卯月朔日、御山に詣拝す*。往昔*、此御山を「二荒山*」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや*、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ*、四民安堵の栖穏なり*。猶、憚多くて筆をさし置ぬ*。
(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)
あらたふと木の下闇も日の光
あなたふと木の下闇も日の光
「あらたふと青葉若葉の日の光」の句碑
日光東照宮「東照大権現鳥居」
二荒山神社
室の八島から日光山麓、日光、裏見の滝の撮影の旅は、5月19日に行きました。折りしも、当日は、元禄2年卯月朔日に芭蕉が日光を訪ねた日の太陽暦に当たり、句碑の写真を撮る時は、本当に青葉若葉の日の光でした。(文と写真提供:牛久市森田武さん:2002年5月)
二荒山:<ふたらさん>と読むが、音読みでは<にっこうさん>、これを弘法大師が音読みにして日光山と命名したというのである。真偽のほどは分からない。 日光の開基は勝道上人と言われていて弘法大師空海ではない 。
千歳未来をさとり給ふにや:<せんざいみらいをさとりたもうにや>と読む。弘法大師は、千年後の未来の発展を確信しておられたのであろうか。
恩沢八荒にあふれ、四民安堵の住みか穏やかなり: <おんたくはっこうにあふれ、しみんあんどのすみかおだやかなり>と読む。日光が言わずと知れた徳川家康をまつる東照宮であってみれば、恩沢が八荒(日本国中の意)に溢れているのは徳川政権への賞賛に他ならない。加えて、「はばかり多くて、筆をさし置きぬ」とあるは、信仰のゆえか、徳川に対する世辞か?。なお、「八荒」は 、八方と同じで周囲全域の意だが、ここは「二」荒山と「四」民にかけて表現した。
四民安堵の栖穏なり:<しみんあんどのすみかおだやかなり>と読む。四民は「士農工商」をいう。人々の生活は平和であるの意。
猶、憚多くて筆をさし置ぬ:<なお、はばかりおおくてふでをさしおきぬ>と読む。日光の荘厳さには心から尊崇を感ずるので、これ以上の詳細は控えたい。
全文翻訳
四月の一日、日光山東照宮にお参りする。その昔、この御山は「二荒山」と書かれていたのを、弘法大師がこの御山を開いたときに音を合わせて「日光」と改めたという。大師は、千年の後のこの繁栄を予見されたのであろうか。東照宮大権現様以来の徳川家のご威光は、日の光のように天空に輝き、その恩沢は八方にあふれ、士農工商すべての人々はみな安堵した生活をおくっている。なお、書くべきことは沢山あるが、おそれ多いので筆を擱く。
あらたふと青葉若葉の日の光