大坂から大垣の門人此筋・千川に宛てたと推測される書簡。宛先や年月や前半部を欠く。『続猿蓑』編纂の意図と苦労と此筋・千川兄弟の句集採録について報告している。ところで、『続猿蓑』は芭蕉生前の最後の大事業であった。沾圃の手に任せていると『猿蓑』の好評に傷がつくと考えた芭蕉は、気の置けない門弟支考を使って全面的にその編纂に力を入れることになった。これもまた芭蕉の死を早めた原因かもしれない。
本書簡中、何やら芭蕉自身で撰集を編む計画があったと思わせる記述がある。しかし、それは成らず、『続猿蓑』自体も、支考の再考を経て、死後4年した元禄11年ようやく京都の書肆井筒屋庄兵衛から出版されたのである。
続猿蓑下清書に懸候:<ぞくさるみのしたせいしょにかかりそうろう>と読む。この頃、『続猿蓑』の板下の清書に入った。なお、『続猿蓑』は、門人沾圃が撰したものを芭蕉と支考が全面的に手を加え、最終的には芭蕉の死後、元禄11年5月に刊行されたのである。
殊之外、其角・嵐雪・桃隣、家々集をかヽへて最中とんぢゃくの折節、少づヽあや出来そ(さ)うにて、物むつかしく候故、愚意を加へ候事は、ふかくかくし申候:<ことのほか、きかく・らんせつ・とうりん、いえいえしゅうをかかえてさいちゅうとんじゃくおりふし・・>と読む。この頃、其角や嵐雪らは夫々の一門の撰集出版に神経を尖らせていた。それに対して芭蕉は積極的に協力をしない。それなのに沾圃が始めた『続猿蓑』に手を貸すというのは、彼らを刺激してあや(摩擦)を生ずると言うのであろう。芭蕉がこのような行動を取るのは、すでに彼らと「軽み」を主導する芭蕉の間には如何ともし難い句風の相違が生じていたからなのである。
尤かまはぬ方能候へ共、前猿集のけがれに成候半をいとひ、しのびに手を入申候:<もっともかまわぬかたよくそうらえども、ぜんさるしゅうのけがれになりそうらわんを・・>と読む。上記のようなことに頓着しない人もいますが、それでも評判のよかった『猿蓑』集に劣るという評判もあることだから、密かに私が手を入れているのです、の意。
此段左様に御意得可レ被レ成候:<このだんさようにおこころえなさるべくそうろう>と読む。この件はそのようにご理解頂きたい、の意。
発句も、越前家中無二是非一人々の句あまた加入、集面先前集にをとり申候:<ほっくも、えちぜんかちゅうぜひなきひとびとのくあまたかにゅう、しゅうめんまずぜんしゅうにおとりもうしそうろう>と読む。『続猿蓑』の沾圃原案では、発句も越前加賀藩のえらい人たちの句が沢山採録されていて、句集の体裁として『猿蓑』に劣るものになっています、の意。沾圃は宝生流の能役者だが加賀前田家に仕えていたため、加賀藩の重鎮達の作品を多く採録したのである。その結果、『猿蓑』と比較して出来が悪かったのである。
愚句廿句計入申候:<ぐくにじゅうくばかりいれもうしそうろう>。そこで、私の句を20句ばかり入れました。それによって集の品位を高めたのである。
御書越候方、皆々は入不レ申候:<おかきこしそうろうかた、みなみなはいれもうさずそうろう>と読む。投句してきた句の全てを入集したのではない、の意。
愚老存知奇(寄)御座候故、むさと句はちらし不レ申候:<ぐろうぞんじよりござそうろうゆえ、・・もうさずそうろう>。私には計画がありますので、むざむざそれらの句を散りばめてしまうことはしませんでした、の意か?。
随分御句数御考可レ被レ成候:<ずいぶんおんくかずおかんがえなさるべくそうろう>と読む、というわけですから、あなた方の句は5句ずつしか採録していませんが、ご理解頂きたいのです、次の機会に考慮したいと思います、の意。