芭蕉db

落梧宛書簡

(元禄2年3月23日 芭蕉46歳)


御同境又三郎殿御下之砌、預芳翰*、殊小帋一束 被堅慮、忝存候。愈其元俳諧も隆盛 之由、御手柄感心不斜候。野生*とし明候へば、又々たびごゝちそぞろになりて、松嶋一見のおもひやまず、此廿六日 、江上を立出候*。みちのく・三越路之風流佳人もあれかしとのみに候*
はるけきたび寝の空をおもふにも、心に障らんものいかヾと、先衣更着末、草庵を人にゆづる*。此人なん妻をぐし、むすめを もたりければ、草庵のかはれるやうをかしくて、

草の戸も住みかはる世や雛の家

三月廿三日              ばせを

落梧雅丈

御連中、可然頼存候。取込候故一紙申残候。

 尚々、秋芳軒主預御状、忝存候*


(芭蕉真筆安川落梧宛書簡。三国路与謝野晶子紀行文学館所蔵)
 


書簡集年表Who'sWho/basho


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  1987年(昭和62)に発見された真跡書簡。「奥の細道」の旅を直前にして、岐阜の門人安川落梧に宛てて書いた返翰と 紙(鼻紙か?)贈呈の謝辞。「曾良旅日記」に書かれている「奥の細道」の旅の出発日時3月20日とのずれがこの書簡の発見によって一挙に解決した。すなわち、芭蕉はこの時期未だ「杉風が別墅」に滞在していたこと、 出発は3月26日の予定であること、また、第二次芭蕉庵を買った人は年配者で、草の戸に雛を飾ったのは娘のためではなくて孫のためだったことなどがこれによって明らかになった、きわめて貴重な書簡。
 「奥の細道」出発日時が27日なので、ここでも1日ずれているのだが、この時代の一日の始まりは午前零時(子の刻)ではなく、明けた日をいうのであって、26日が27日になったのは、日にちのずれではなくて出発が明るくなってからのために一日進んでしまったと考えられるのである。