芭蕉db

奥の細道

元禄2年3月27日〜9月6日(46歳)

(序)


 月日は百代の過客*にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ*馬の口とらえて老をむかふる物*は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人*も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ*、去年の秋江上の破屋*に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神*の物につきて心をくるはせ、道祖神*のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里*に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて*、住る方は人に譲り、杉風が別墅*に移るに、
 

草の戸も住替る代ぞひなの家

(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

面八句*を庵の柱に 懸置*

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表紙 年表


草の戸も住替る代ぞひなの家

(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

 
 「雛の家」という ように芭蕉が立ち退いた後の芭蕉庵は、女の子のいる家族が移り住んだようだ。この譲受人は兵右衛門という妻子持ちであった。『一葉集』には、「・・・。日比住みける庵を相知れる人に譲りて出でぬ。この人なむ、妻を具し、娘・孫など持てるひとなりければ」と詞書が付けられている。 どうも兵右衛門夫婦は若い人達ではなかったらしい。
 なお、この句は、

草の戸も住み替る世や雛の家
(真蹟短冊)

ともある。こちらが初案であろう。 「世」から「代」へ変更は「世帯」から「時代」への時代の変化を意味しているのであろう。「や」と「ぞ」で句勢がまったく異なってくる。

 

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奥の細道自筆本


深川芭蕉記念館の「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」の句碑

東京深川芭蕉稲荷神社(写真提供:牛久市森田武さん))


 つきひははくたいのかかくにして、 いきこうとしもまたたびびとなり。ふねのうえにしょうがいをうかべうまのくちとらえておいをむかうるものは、ひびたびにして 、たびをすみかとす。こじんもおおくたびにしせるあり。よもいずれのとしよりか、へんうんのかぜにさそわれて、ひょうはくのおもいやまず、かいひんにさすらえ、こぞのあきこうしょうのはおくにくものふるすをはらいて、や ゝとしもくれ、はるたてるかすみのそらに、しらかわのせきこえんと、そヾろがみのものにつきてこころをくるわせ、どうそじんのまねきにあ いてとるものてにつかず、もゝひきのやぶれをつヾり、かさのおつけかえて、さんりにきゅうすゆるより、まつしまのつきまずこころにかゝりて、すめるかたはひとにゆずり、さんぷうがべっしょにうつるに、

くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ

おもてはちくをいおりのはしらにかけおく。


全文翻訳

月日は二度と還らぬ旅人であり、行きかう年もまた同じ。船頭として舟の上で人生を過ごす人、馬子として愛馬と共に老いていく人、かれらは毎日が旅であり、旅が住いなのだ。かの西行法師や宗祇、杜甫や李白など、古の文人・墨客も、その多くは旅において死んだ。私もいつの頃からか、一片のちぎれ雲が風に流れていくのを見るにつけても、旅への想いが募るようになってきた。『笈の小文』の旅では海辺を歩き、ひきつづき『更科紀行』では信濃路を旅し、江戸深川の古い庵に戻ってきたのはたった去年の秋のこと。いま、新しい年を迎え、春霞の空の下、白河の関を越えよとそそる神に誘われて心は乱れ、道祖神にも取り付かれて手舞い足踊る始末。股引の破れをつづり、旅笠の紐を付け替えて、三里に灸をすえてみれば、旅の準備は整って、松島の月が脳裡に浮かぶ。長旅となることを思って草庵も人に譲り、杉風の別宅に身を寄せて、

草の戸も住替る代ぞひなの家

これを発句として、初折の八句を庵の柱に掛けて置いた。