芭蕉db

森川許六宛書簡

(元禄6年3月20日? 芭蕉50歳)

書簡集 /年表Who'sWho/basho
 

 朶雲*かたじけなく拝見、いよいよ御無異に御勤めなされ候よし、珍重に存じ奉り候。頃日は天気よろしからず候て、御左右*もこれ無くと推察申し候。しかるに、明日其角・桃隣参るべきよし、さいはいの一座*、佳興あるべく候へども、桃隣存じの通り*手まへ病人*先月二十日頃より次第次第に重病、この五六日しきりに悩み候て、すでに十死の体*に相見え候。一昨夜は、桃隣夜伽*を頼み候体に御座候。しかれども、癆症*のことに候あひだ、急には事終り申すまじく候か。旧里を出でて十年あまり二十年に及び候て、老母に再び対面せず、五六歳にて父に別れ候て、その後は拙者介抱*にて三十三になり候。この不便はかなき事ども、思ひ捨てがたく、胸を痛ましめ罷り在り候。いまだ、いつごろ御見舞とも定めがたく候*あひだ、左様に御心得なされ下さるべく候。
一、見事の花*、御意にかけられ、病人にも花の名残と存じ、見せ申し候あひだ、よろこび申し候。以上
許六様                        ばせを
 先日御出で、御残り多し*。病人ゆゑ久々出でず候ところ、曲水病気のよし、手前病人もその日は少し心持よく候ゆゑ、病人も我らをすすめ候て参れと申し候ゆゑ、もし拙者ひたすら付きそひ候も窮屈にやと、昼のうち出で申し候。少し朝のあひだ待ち申し候。御残り多く、そのうち近所へ御出で候はば、御立ち寄り仰ぐべく候。

 許六からの句会の招待に対して、甥桃印の重体という事態のため断らざるを得なくなった。桃印はこの書簡の直後に死出の旅に出発することになるが、芭蕉のこの時期の看病ぶりは実に切実であった。短文の手紙で終るのも、最低限許六への無礼を詫びることだけに主眼を置いたためであろう。