(元禄6年8月20日 芭蕉50歳)
書簡集/年表/Who'sWho/basho
名月
深川芭蕉庵から、三河新城の白雪宛に出した書簡。現存する「閉関之説」後最初の書簡である。
折々指出候而迷惑致候に付、盆後閉関致候:<おりおりさしいでそうろうてめいわくいたしそうろうにつき、ぼんごへいかんいたしそうろう>と読む。この夏は猛暑で、芭蕉は桃印の死や許六との別れ、加えて江戸蕉門の不和などその身辺におもしろからぬ事件が次々と出来した。これによる体調の不調を来し、ついに面会謝絶の挙に出た。「折々指出」は持病の出来を指すものらしい。
猶期二後音時一候:<なおこういんのときをごしそうろう>と読む。また、別の機会にお便りします、末筆にて、の意。
菅沼長七殿:<すがぬまちょうしち>。菅沼権右衛門、俳号耕月。三河新城藩の重臣。