徒然草(下)

第240段 しのぶの浦の蜑の見る目も所せく、


 しのぶの浦の蜑の見る目も所せく*、くらぶの山も守る人繁からんに*、わりなく通はん心の色こそ*、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ*、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし*

 世にありわぶる女の*、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、賑はゝしきにつきて*、「誘う水あらば*」など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして*、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん*。年月のつらさをも、「分け来し葉山の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ*

 すべて、余所の人の取りまかなひたらん*、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくゝ、年も長けなん男は*、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと*、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん*。いとこそあいなからめ*

 梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も*、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ*

しのぶの浦の蜑の見る目も所せく:忍ぶ逢瀬も人の目がうるさくて、あるいは邪魔で、。「浦の蜑<うらのあま>」は、二条院讃岐の歌「うちはへて苦しきものは人目のみしのぶの浦のあまのたく縄」(『新古今集』巻12)(長くのばして(離れた男を偲の意)苦しい私の人目を忍ぶ恋につけても、信夫の浦で海人が曳くコウゾで作った縄を見るにつけて一層苦しくなります)を引用。このつまらない歌は、作るために作っただけの話だが(訳者注)。

くらぶの山も守る人繁からんに:真っ暗な夜の鞍馬山と言えども、山守が多勢いてしのぶ目が多ければ、。

わりなく通はん心の色こそ:そういう逆境にめげずに通い続けた恋というものは、。

浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ:心底しみじみ感ずる折々の忘れ難いことも多かろうが、。

親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし:そういう熱烈な恋でも、親兄弟の承認の下に結婚ということになってしまうと、なんとも照れくさいことになるのではないか。

世にありわぶる女の:どうも生きぐるしい状態に陥った女が、。物質的にか精神的にかだが、ここは後者をイメージして、。

賑はゝしきにつきて:羽振りのいいのにほだされて、。老僧や関東の野蛮人だが金持ちの男なんかと一緒になることを想定して。

誘う水あらば:小野小町の歌「わびぬれば身を浮き草の根を絶へて誘ふ水あらば去なんとぞ思う」(『古今集』巻18)の引用。美人の誉れ高かった小町も、年老いて「世にわぶる」身となったとき、私と結婚してくれるという人がいたら一緒に行ってもいいですよ、と歌ったという。 だが誰もいなかったのである。絶世の美女も、最後には奥州極楽寺の門前で果てたと言い伝えれているが、、。

仲人、何方も心にくき様に言ひなして:そういうロマンチックでない話で結婚したというのに、仲人などが如何にも愛情溢れるような話に変えてしまうのは、実に面白くない。

何事をか打ち出づる言の葉にせん:そういう場合に相応しい言葉は何だろう?

年月のつらさをも、「分け来し葉山の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ:この辛かった年月のこと、「はるばる来た遠い道」などを語るのは、尽きせぬ感情があるかもしれない。

余所の人の取りまかなひたらん:すべて他人が間に入ってまとめたような結婚は、面白くない。

品下り、見にくゝ、年も長けなん男は:品が無く、顔も悪く、年も取っている等というような男が、(わびるとは言え)身分の高い女と結婚したというのは、。

かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと:女がこのようにやっていけなくなってしまったからであって、あたら身をこんな男に投げ出すというのは、。面白くないと人々は思い、。

我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん:また、当の男もわが身の身分の低さに、女に向かい合っていても恥ずかしく思ってしょうがなかろう。

いとこそあいなからめ:何ともかんとも味気ないことである。

梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も:朧月の春の夜、梅の花の匂う垣根の露を踏んで、分け出でてくるような熱い恋をしたというのではなく、。

我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ:わが身に忍ぶ恋など無いというような無粋な人は、恋愛などしてはならない。


 「梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如か じ。」恋愛至上主義者の兼好の恋の告白。世を捨てる前の若き兼好の女性遍歴が偲ばれる一編。


 しのぶのうらのあまのみるめもところせく、くらぶのやまもまもるひとしげからんに、わりなくかよわんこころのいろこそ、あさからず、あわれとおもう、ふしぶしのわすれがたきこともおおからめ、おや・はらからゆるして、ひたふるにむかえすえたらん、いとまばゆかりぬべし。

 よにありわぶるおんなの、にげなきおいぼうし、あやしのあづまうどなりとも、にぎわわしきにつきて、「さそうみずあらば」などいうを、なかうど、いずかたもこころにくきさまにい いなして、しられず、しらぬひとをむかえもてきたらんあいなさよ。なにごとをかうちいずることのはにせん。としつきのつらさをも、「わけこしはやまの」などもあいかたらわんこそ、つきせぬことのはにてもあらめ。

 すべて、よそのひとのとりまかないたらん、うたてこころづきなきこと、おおかるべし。よきおんなならんにつけても、しなくだり、みにくく、としもたけなんおとこは、かくあやしきみのために、あたらみをいたずらになさんや はと、ひともこころおとりせられ、わがみは、むかいいたらんも、かげはずかしくおぼえなん。いとこそあいなからめ。

 うめのはなこうばしきよのおぼろづきにたたずみ、みかきがはらのつゆわけいでんありあけのそらも、わがみざまにしのばるべくもなからんひとは、た だ、いろこのまざらんにはしかじ。