徒然草(下)

第221段 建治・弘安の比は、


「建治・弘安の比は*、祭の日の放免の附物に*、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして*、蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事*、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの*、今日も語り侍るなり。

 この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて*、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し*

建治・弘安の比は:<けんじ・こうあんのころは>と読む。建治年間は1275年から78年、弘安年間は1288年までの期間。後宇多天皇の時代。

祭の日の放免の附物に:賀茂の祭の折に「放免<ほうべん>」が行列に参加し、彼らに様々な衣服をつけさせた。「放免」は、犯罪者のうち 微罪のものを放免して、逆に検非違使庁の下役に使役した。彼らに賀茂の祭では鉾を持たせて行進したという。

異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして:風変わりな紺の反物4、5反で馬を作り、その尾やたてがみは灯明の心に使う糸を垂らしてつくって、。

蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事:放免らが着用した水干には蜘蛛の巣の絵を描いて、「蜘蛛の巣に荒れたる駒はつなぐとも二道かくる人は頼まじ」という古歌を詠いながら行進した。

老いたる道志どもの:「道志」は大学寮の明法道のOB、つまり法律大学出身の卒業生で検非違使庁の役人。

年を送りて、過差殊の外になりて:年年歳歳、派手になってきて、。ぐちゃぐちゃと飾り物をくっつけるようになってきたという。

左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し:自分の両の袖すら付け人に持たせ、自分では鉾すら持たず、フーフー言って歩いている有様、実に面白くない。


 「この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、・・」というように、文化は常に過剰性を呈するのである。


「けんじ・こうあんのころは、まつりのひのほうべんのつけものに、ことようなるこんのぬのしごたんにてうまをつくりて、お・かみにはとうじみをして、くものいかきたるすいかんにつけて、うたのこころなどいいてわたりしこと、つねにみおよびは んべりしなども、きょうありてしたるここちにてこそはんべりしか」と、おいたるどうしどもの、きょうもかたりはんべるなり。

 このごろは、つけもの、としをおくりて、かさことのほかになりて、よろずのうごきものをおおくつけて、そうのそでをひとにもたせて、みずからはほこをだにもたず、いきづき、くるしむありさま、いとみぐるし。