徒然草(下)

第157段 筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。


 筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ*。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず*

 あからさまに聖教の一句を見れば*、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり*。仮に、今、この文を披げざらましかば、この事を知らんや*。これ則ち、触るゝ所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし*

 事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す*。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

を取れば攤打たん事を思ふ:<さいをとればだうたんことをおもう>と読む。「賽」はサイコロ、「攤<だ>」は、平安時代からの、さいころを使った遊戯の一つ。三個のサイコロを筒に入れてそのさいの目の大小で勝敗を決める単純な遊戯(『大字林』参照) 。

仮にも、不善の戯れをなすべからず:かりそめにも善くない遊びをしてはならぬ。

あからさまに聖教の一句を見れば:ほんの少しでもお経の文句などを目にすると、。「あからさま」はかりそめの意。

卒爾にして多年の非を改むる事もあり:<そつじにして・・>。(経文の教えによって)突如として長年の自分の非を改めることなどもある。「卒爾」はにわかにの意。

仮に、今、この文を披げざらましかば、この事を知らんや:<・・いま、このふみをひろげざらましかば・・>。「文」は経文のこと。いま、一本のお経をひろげてみれば、このことが分かるであろう。

散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし:心と体が不一致で乱れていても、座禅につけば、真理の悟りへと導かれるのである。「縄床」は座禅のための椅子の一種。

外相もし背かざれば、内証必ず熟す:「外相<がいそう>」は外に現れた心句意のこと、それが間違っていなければ、必ず心の内面も整って悟りに近づく。その意味で、前文の「事・理もとより二つならず」 であって、一つであるというのであろう。


 「心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし」は、「只管打坐」の説明になっている段。


 ふでをとればものかかれ、がっきをとればねをたてんとおもう。さかずきをとればさけをおもい、さいをとればだうたんことをおもう。こころは、かならず、ことにふれれてきたる。かりにも、ふぜんのたわむれをなすべからず。

 あからさまにしょうぎょうのいっくをみれば、なんとなく、ぜんごのもんもみゆ。そつじにしてたねんのひをあらたむることもあり。かりに、いま、このもんをひろげざらましかば、このことをしらんや。これすなわち、ふる るところのやくなり。こころさらにおこらずとも、ぶつぜんにありて、じゅずをとり、きょうをとらば、おこたるうちにもぜんごうおのずからしゅせられ、さんらんのこころながらもじょうしょうにざせば、おぼえずしてぜんじょうなるべし。

 じ・りもとよりふたつならず。げそうもしそむかざれば、ないしょうかならずじゅくす。しいてふしんをいうべからず。あおぎてこれをとうとむべし。