徒然草(上)

第52段 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ


 仁和寺にある法師*、年寄るまで石清水を拝まざりければ*、心うく覚えて*、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり*

 さて、かたへの人にあひて*、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど*、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず*」とぞ言ひける。

 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり*

仁和寺にある法師:仁和寺に居た僧侶。仁和寺は、京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山。仁和4年(888)宇多天皇の創建という。

年寄るまで石清水を拝まざりければ:年取るまで石清水八幡神社に参詣したことがないので。「石清水八幡神社」は、京都府八幡市にある山上の神社。 木津川・宇治川・桂川の合流点、淀川の始点付近、天王山の反対側の山上にある。

心うく覚えて:心残りに思っていたので。

極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり:<ごくらくじ・こうらなどおがみて>と読む。 極楽寺は、石清水にあった神仏混交の寺院。また、高良は高良神社で、石清水八幡の付属の神社。この仁和寺の僧は、付属の神社と神仏混交の寺院を参詣して「かばかり=これだけだと思って」帰ってきてしまったのである。

かたへの人にあひて:仲間 の人に向かって。仁和寺の同僚の僧侶でもあるか?

参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど:みんなぞろぞろと山の上の方に登っていくので、何があるのかしらんと、私も興味があったけれど、 。

神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず:この僧侶は、極楽寺と高良神社が石清水八幡と思っていたので、ついでに山に登るのは神聖さに対する一種の冒涜行為と思っていたのである。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり:まあ、こんな簡単なことでも、指導者というものが必要なのだ。


 世の中、この「仁和寺にある僧」のような民衆が圧倒的に多いのではないか? そうでなければ、これ程までにご粗末な世の中にはならなかったはずで。
 次段ともならんで、本集中でもっとも有名な一段。


 にんなじにあるほうし、としよるまでいわしみずをおがまざりければ、こころうくおぼえて、あるときおもいたちて、ただひとり、かちよりもうでけり。ごくらくじ・こうらなどをおがみて、かばかりとこころえてかえりにけり。

 さて、かたえのひとにあいて、「としごろおもいつること、はたしはんべりぬ。ききしにもすぎてとうとくこそおわしけれ。そも、まいりたるひとごとにやまへのぼりしは、なにごとかありけん、ゆかしかりしかど、かみへまいるこそほいなれとおもいて、やままではみず」とぞいいける。

 すこしのことにも、せんだつはあらまほしきことなり。