徒然草(上)

第18段 人は、己れをつゞまやかにし


 人は、己れをつゞまやかにし*、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らざらんぞ*、いみじかるべき*。昔より、賢き人の富めるは稀なり。

 唐土に許由といひける人は*、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ*、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける*。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は*、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを*、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。

 唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず*

己れをつゞまやかにし:簡素な生活をすること。

世を貪らざらんぞ:世俗的な欲望、金銭や名誉欲などをいう。訳者は今までに「世を貪らない」人を見たことがない。わけても、世の指導者と言われる人々においては殊のほか絶無である。わけても、御用学者においては言うことと行動の間の乖離は絶望的 。

昔より、賢き人の富めるは稀なり:いま、世は、あげて、「下流社会」であり、大いに疑問。勝ち組と称する人々は、「賢い」人々ばかりなのだから、この兼好の説は当たらない。

いみじかるべき:「いみじ」は忌まなければならないほどひどい、というところから》善悪ともに程度のはなはだしいさまにいう。下にくる被修飾語の程度が並々でないさまを表す。はなはだしい。著しいなど。ただし、後ろに被修飾語のない場合で、望ましいものについては、「たいそうすばらしい。たいそううれしい。すぐれている」などが、また、望ましくない場合には「たいそうつらい。ひどく悲しい。すさまじい。ものすごい。など」の意がある(『大字林』より)。この場合は、優れている等の意。

唐土に許由といひける人は:<もろこしにきょうゆうと・・」と読む。許由 <きょゆう>は、中国古代の伝説上の人物。尭<ぎよう>帝が位を譲ろうと言うと、汚れたことを聞いたと、潁水<えいすい>で耳を洗い、箕山<きざん>に隠れたと伝えられる(『大字林』より)。許由については、芭蕉の『笈の小文』にもある。日本人の隠遁派の知識人の理想とした人物像。

なりひさこといふ物を人の得させたりければ:「なりひさこ」は瓢箪 <ひょうたん>のこと。それで水を飲めといって与えたということ。これを木の枝にかけておいたりすると、呑口の面と平行な風が吹くと、口笛と同じで風切り音が発生してピーピーと鳴ったであろう。

手に掬びてぞ水も飲みける:<てにむすびて・・>と読む。手ですくって水を飲んだ。

孫晨は:<そんしん>。中国の伝説的立志伝中の人物。

冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを:「衾<ふすま>」は寝具。今のかけ布団に相当するもの。月光のさえる寒い冬の夜に衾もかけずに、藁にくるまって寝たのである。

これらの人は、語りも伝ふべからず:意味不明。中国の人々は、許由や孫晨のような、世捨て人を「いみじ」と思えばこそ、言い伝えてきたのだが、と前置きしてから、結言が不明。「これらの人」を多くは、日本の人と解釈するのが通例で、「日本人は許由らのような無一物の世捨て人を語り継いでこなかった」とするが、西行などは尊敬されてきたし、鴨長明も同様であった。


 作者の、出家趣味、世捨て人への親近感を説いた段である。「賢き人の富めるは稀なり」とまで言う。これほど現代に通用しない言葉もないのではないか。「貧しさ」は、「無能」の結果であり、帰結なのだというのが、後期資本主義時代の常識なのだから。←『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(M・ウェーバー)(岩波文庫)を見よ。


 ひとは、おのれをつゞまやかにし、おごりをしりぞけて、たからをもたず、よをむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。むかしより、かしこきひとのとめるはまれなり。

 もろこしにきょゆうといいけるひとは、さらに、みにしたがえるたくわえもなくて、みずをもてしてささげてのみけるをみて、なりひさこというものをひとのえさせたりければ、あるとき、きのえだにかけたりけるが、かぜにふかれてなりけるを、かしかましとてすてつ。また、てにむすびてぞみずものみける。いかばかり、こころのうちすずしかりけん。そんしんは、ふゆのつきにふすまなくて、わらひとつかありけるを、ゆうべにはこれにふし、あ したにはおさめけり。

 もろこしのひとは、これをいみじとおもえばこそ、しるしとどめてよにもつたえけめ、これらのひとは、かたりもつたうべからず。