徒然草(上)

第2段 いにしへのひじりの御代の政をも忘れ 、


 いにしへのひじりの御代の政をも忘れ*、民の愁、国のそこなはるゝをも知らず、万にきよらを尽していみじと思ひ*、所せきさましたる人こそ*、うたて、思ふところなく見ゆれ*

 「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る*。順徳院*の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもッてよしとす*」とこそ侍れ。

いにしへのひじりの御代の政をも忘れ :<いにしえの・・みよのまつりごともわすれ>と読む。昔の聖天子の簡素を旨とする政治のことを忘れて、あるいは無視して、の意。ここでは、仁徳天皇の「かまどの煙」の話がイメージされている。
万にきよらを尽していみじと思ひ:万事派手にやっていい気になっている(人)。
所せきさましたる人ところせましと、大きい顔をしている人 。
うたて、思ふところなく見ゆれ:「うたて」は、ますます事態が悪化するさまを表す副詞。なんともはや、思慮分別が無いように見えることだ。
九条殿の遺誡にも侍る:「九条殿」は、藤原師輔 <もろすけ>(908〜960)。平安中期の公卿。藤原忠平の子。通称が九条殿。娘安子が村上天皇の皇后となり、子の兼通・兼家、孫の道長と続く摂関家の祖となった。有職故実の九条流の祖。子孫に九条兼実や慈円などがいる。著『九条年中行事』、日記『九暦(きゆうれき)』がある(『大字林』より引用)。「遺誡<ゆいかい>」は、師輔が子孫に対して残した訓戒で、質素倹約を説いたもの。その中で、「衣冠も馬や牛車などあるものを使え。華美を求めてはならぬ」と言っているというのである。
順徳院第八四代順徳天皇(1197〜1242)。在位1210〜21。後鳥羽天皇の第三皇子。名は守成(もりなり)。承久の乱に敗れて佐渡に流され、同地で没。和歌に秀で、歌集『順徳院御集』、歌学書『八雲御抄』などがある(『大字林』より)。
おほやけの奉り物:
天皇の着物 のこと。これは質素にしておくのがよいと順徳帝は『禁秘抄』という書物の中で述べている。

 華美に対する戒めを述べたもの。例示として、藤原師輔の遺誡と順徳天皇の書物を引用。誰か非難したい対象があったのであろうが、それは不明。なお、「万にきよらを尽していみじと思ひ、所せきさましたる」知人・同僚・御用学者・藪医者に筆者は事欠かない。


 いにしえのひじりのみよのまつりごとをもわすれ、たみのうれい、くにのそこな わるゝをもしらず、よろずにきよらをつくしていみじとおもい、ところせきさましたるひとこそ、うたて、おもうところなくみゆれ。
 「 いかんよりうま・くるまにいたるまで、あるにしたがいてもちいよ。びれいをもとむることなかれ」とぞ、くじょうどののゆいかいにもはんべる。じゅんとくいんの、 きんちゅうのことどもかゝせたまえるにも、「おおやけのたまわりものは、おろそかなるをもッてよしとす」とこそはんべれ。