芭蕉db

明智が妻の話

(元禄2年9月 46歳)

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真蹟懐紙

 将軍明智*が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば*、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ*。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。

                         ばせを

月さびよ明智が妻の話せむ

(つきさびよ あけちがつまの はなしせん)

       又玄子妻に参らす*


俳諧勧進牒

伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比、その
妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに
見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の
日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心
ばせ、今更申し出でて、

月さびよ明智が妻の咄しせ


滋賀県大津市坂本の西教寺境内の句碑(牛久市森田武さん撮影)


 伊勢の神職で蕉門の又幻<ゆうげん>は、神職間の勢力争いに敗れ、この頃、貧窮のどん底にあった。芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折り、又幻宅に止宿した。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受け芭蕉は感激して、後にこれを贈る。


細川ガラシャ夫人ゆかりの西教寺の石仏(同上)
ガラシャ婦人(1563-1600)は、 安土桃山時代のキリシタン大名細川忠興の室。明智光秀の女(むすめ)で名は玉。ガラシャはキリシタン洗礼名。関ヶ原の戦いの際、人質として大坂城に入城することを拒み、自刃した。(『大字林』)